投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時55分27秒   通報 編集済
確かに

「法門を理解しても信心がない者は絶対に成仏しない。
法門が理解できなくても信心のある者は成仏できる(趣意)」(一四四三頁)と、

御書にはあります。

しかし

「解らない人は法門の研鑽をしなくても解る人に任せればよい」などとは、

どこにも書いていない。また

「末代の凡夫は法門を少々心得てはいるけれども、
僧(法華経の行者)をあなどり、法門をないがしろにして悪道に堕ちる(趣意)」(同頁)

ともある。さらに

「今は仏はいない。
だから仏法を解悟(迷いから解き放たれて真実の道理を悟る)した
智慧(善知識)を仏として敬うべきである。

(中抜)後世を願う者は、名聞名利を捨てて、いかに身分が卑しい人であっても
法華経を説く僧がいたならば、生きた仏のごとくに敬いなさい。

これは我見ではなく、まさしく経文にある通りだ(趣意)」(一四四四頁)

と書いてある。また、法門が理解できなければ

「法華経を説く僧を解悟の智慧(善知識)とたのんで法門をたずねなさい(趣意)」(同頁)

とも書いてある。さらに

「何としてもこの経の心を知っている僧に近づき、
いよいよ法の道理を聴聞して信心の歩を運んでいきなさい(通解)」(一四四〇頁)と、

大聖人は言い切っています。要するに

〝教学を学ぼう〟とする求道心のない者は、信心していても悪道に堕ちるということです。

また

「法門を心得ている人のしるし(証拠)というのは、どんな行動をしている人かというと、
僧(法華経の行者)を敬い、経文を崇め、仏を供養している人(趣意)」(同頁)とあります。

青年世代の時は、まわりから〝きちがい〟と言われるぐらい教学の研鑽をしてください。

そうでなければ、後悔するし、悪を見破ることなど、到底できないと思います。

「信・行・学」の三つを実践しない信仰者が、いくら立派なことを主張しても、しょせん口だけです。