2017年3月10日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2017年 3月10日(金)14時54分50秒 通報 大聖人の立正安国論が、現代に至ってもなお、世界平和実現のための 指南書なのかというと、武器を用いず、経文を根本に道理を尽くし、 対話を通して「正は正・邪は邪」と為政者に訴えているからです。 立正安国論は末代の弟子たちに、その勢力と戦うために 道理を立て、対話という戦いの方途を示しているようにも見えます。 ましてや「教義論争や思想戦」において、弟子がもっとも心すべきは、 大聖人が示した「経文を根本とする」ということです。 これが出来ないならば 〝低い境涯で、単なる我見と感情で主張しているだけだ〟 と喝破されてもしかたがないと思う。 第二次宗門問題、勃発当時の青年部は、現場の会員が安心して学会活動できるように、 坊主や法華講から攻撃されないように、誰に賞賛されずとも、 懸命に教学を研鑽し、ひたすら坊主や 法華講と教義論争をして陰から会員を守ってきました。 法華講が「もうこの地域の会員宅を訪問するのは嫌だ」というくらい、徹底して 現場に駆けつけ、道理を立てて対論し、坊主や法華講から会員を守ってきたのです。 しかし、末端会員のほとんどは、そういう事実を知りません。 幹部も言わないし、言おうともしない。 彼らはライン役職を全うしながら同志を励まし、 題目を上げ抜いて仏道修行を貫き通してきました。 もし今の青年部の中に「教学があっても信心がなければ・・・」などという者がいたと するならば、あまりにも信心がわかっていない証拠であると断言できます。 徹して教学の勉強もせず、仏敵との攻防戦もしない 中途半端な教学部員に、そんなことを言う資格はない。 Tweet