2017年1月31日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月31日(火)09時31分52秒 通報 2002.03 皆さんこんにちは! 私はY病院で主任をしており、通称「L子さん」と呼ばれています。昭和51年、 高校卒業後、新潟から上京する時に、小説「人間革命」を基に3つの願いをた てていました。第一は池田先生の故郷・大田区に住むこと、第二は「山本」と いう姓の人と結婚すること、そして、第三は男の子を産み、名前は「伸一」を つけることでした。 願い通り上京以来10年間、大田区蒲田に住み、働きながら看護学校に通い看護 婦の免許を取得しました。白樺グループで活動する中で、26歳の時、不思議に も「山本さん」と出会い結婚し、4年後、待望の男の子が生まれ「伸一」と名 づけ、3つの願いは全てかない感動でした。夫は、自営業でしたが、私は看護 婦として働き、一家和楽の信心をし、幸福な結婚生活を送っていました。そん な時、病棟にA君17歳が松果体部(しょうかたいぶ)の脳腫瘍で生存率も低いと 医師に宣告され、手術は難しく、化学療法と放射線療法の目的で入院してきま した。A君はとても繊細で自分の感情を押さえて本当のことは言わず、看護婦の 動きを見つめていました。私は、A君の心を開きたいと祈る中で、A君が「僕、 病気を聞いた時、一人になるのが怖くて、誰か側にいて欲しかった。大学に行き たいけど、生きていられるのか?」と一気に話してきました。希望を失っている A君の思いに、心が痛くなり「A君のこれからの命は私が護る」と思わず答え、 その日からA君のためにお題目をあげ始めました。A君は副作用の嘔吐(おうと) や脱毛に苦しみながらも、治療に耐え、看護婦にも話しかけてくるようになりま した。2カ月間の治療効果があがり、そしてついに、喜びの中で退院の日を迎え たのです。私は「毎日、あなたの癌(がん)が再発しないように祈っているからね 」と励ましの声をかけ、見送りました。しかし看護する喜びに溢れていた平成10 年9月、夫の商売が不況となり、倒産したのです。自宅を売っても多額の借金が 残りました。私は三交替勤務の中、地区婦人部長として活動しておりましたが、 この現状を誰にも言えず、悲しみと夫への怒りが爆発していました。 悶々(もんもん)として御本尊様に題目をあげていた時、「最も苦しいのは主人じ ゃないか。私の宿命転換しか方法はない」とハッと気付きました。それからは、 自分のつらさに負けてはいけない、と自分自身を叱咤(しった)激励し、地区のみ んなを笑顔で励まし、折伏、新聞啓蒙にと率先して戦い、多忙の中にも時間をみ つけて題目をあげ、”生きている力”を全て学会活動に打ち込みました。そして個 人折伏も実らすことが出来ました。 この猛烈な戦いで、我が地区は、その年の”地区総合最優秀賞”に輝いたのです。 大歓喜で新年を迎え、必ず宿命転換をすると勇気百倍になっていました。そんな 折、教育婦長に呼ばれ、30代の若手しか行けない教育大学校に、40歳の私に白羽 の矢がたち、しかも給料の6割をもらい、行けることになりました。これも戦っ た功徳でした。晴れて平成11年4月、神奈川県教育大学校の教育過程に入学する ことができました。夢のような毎日が始まって、1カ月後の5月、主人が「ちょ っと出かけてくる」と言い残して、家を出て行ってしまったのです。それからと いうもの、黒いスーツの人が来て「旦那はどこに行った。隠してもダメだ」と脅 迫され、四六時中、見張られて生きた心地がしませんでした。更に、私が保証人 になっている1200万円の借用書を、かの有名なBファンドの人が持ってきたでは ありませんか。一度ならず二度までも、絶体絶命のふちに立たされた私は、宿命 転換の厳しさに生きる気力さえも失いかけていました。しかし、途方にくれてい た私に、知人の助言で借金返済の為、6カ月間調停で戦い、最後は本社に一人で 乗り込み、なんと、私の給料で支払える半額以下で決着をつけることができたの です。本社を一歩出た時は、全身が震え、座り込んでしまいました。心の中では 、「ヤッター」と叫んでいました。 平成12年3月、苦難を乗り越えて教育大学校を卒業することができ、私は、外科 病棟の主任に昇格しました。新たな気持ちで看護する日々が9カ月過ぎた時、突 然、夫の叔母が硬膜下血腫で入院をしました。叔母は鎌倉八幡宮で記念撮影をす る写真業を営み、創価学会と聞いただけでバカにしていました。しかし頼りの夫 を亡くし、私以外に頼れる人がいないのです。私はかわいそうで、叔母の病院、 職場、地区、家庭と4カ所をかけもち、目まぐるしい日々が始まりました。叔母 はその後、腹部大動脈瘤の手術を受けて、1年後、治療や療養をして、昨年の12 月に退院してきました。私は「叔母が生きている間に、御本尊様を頂くのは今し かない」と思い、「叔母さん、私を信じて信心しましょう」と言ったところ、3 年間猛反対していた叔母がなんと「信心するよ」とあっさり言い、平成13年12月 3日入会しました。そして驚いたことに81歳の叔母が今まで築いたもの全てを、 私に託すと言うのです。あまりの変わり様にビックリしてしまいました。またま た、大功徳を頂きました。そして更にこの春、私が6年間祈り続けたあのA君が 、大学を1年で中退して「山本看護婦さんのようになりたい」と看護の道を目指 し、この3月4日に見事に看護学校を卒業したのです。思えば、結婚して幸福だ った10年間、嵐が次々と吹き荒れた4年間、何度死を覚悟したか分かりません。 ただ、無我夢中で看護と学会活動に励む中で、大きく宿命転換をすることができ ました。池田先生は「戦い抜いた人生は美しい。前に進み続ける人生はすがすが しい。広宣流布の大目的の柱さえ不動であれば、人生何があろうとぐらつくこと はない」とご指導されています。これからも、何があろうと、この大きな胸に包 み込み、妙法の看護師として慈愛と勇気の心で前進して参ります。 Tweet