2017年1月31日 投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月31日(火)19時35分20秒 通報 昭和27年、若き日(24歳)の池田名誉会長は支部幹事の任命を受け 蒲田支部へ行かれました。当時、最も活力のある支部でも、月に 100世帯の折伏が限界でした。このままでは、戸田先生の大願であ る「75万世帯」達成は誰の目にも不可能と思えた。 蒲田支部の支部幹事として任命された池田先生は拡大の突破口を開く、 師弟不二の必死の実践を貫きます。そして、任命の翌月の2月、蒲田 支部は限界を大きく打ち破る「201世帯」の未曾有の折伏を成し遂 げる事となるのです。 ここから波動が広がり、戸田先生の願業であった75万世帯の達成となる。 活動の限界を大きく打ち破る広布の歴史に不滅の金字塔を打ち立てました ◇◇◇ 「雁行進を今月で打ち切りとする以上、来月からはどのような態勢で進ん だらよいかといえば――驀進あるのみと私は答えよう。(中略)なすべき 時に、なすべきことを率先して着々と勇敢に実践するのが広布の途でなけ ればならない。臆病者は去れ、と私はいいたい!」「人間革命5巻驀進」 この戸田先生の叱咤激励に、蒲田支部の支部幹事を兼任したばかりだった 若き池田先生は「201世帯」の折伏を達成し戸田先生の「75万世帯」 の折伏という願業の達成の先駆となった。この昭和27年2月「201世 帯」の折伏成果をあげた闘争を「二月闘争」と呼び、学会の伝統となりま した。 新人間革命に見る二月闘争 「新・人間革命布陣二十一」 「ひとたび戦いを起こすならば、必ず勝つという伝統をつくっていただき たいのであります。」今戦いを起こしたからには絶対に勝利し、師弟共戦 の伝統を創って行きたい。「新・人間革命平和の光三十七」山本伸一は、 戸田城聖の第二代会長の就任の日となった1951年(昭和26年)の5月 3日、戸田が宣言した75万世帯の達成という大指標を、片時も忘れるこ とはなかった。それはまた、伸一自身の人生の目標でもあったからだ。し かし、当時学会の折伏の進展は、戸田のその構想を実現するには、あまり にも緩慢であった。大支部でも、折伏はひと月に百世帯が限界であった。 “このままでは、戸田先生の宣言は虚妄となってしまう”伸一は悩んだ。 ・・・・戸田から蒲田の支部幹事として活動の指揮をとるよう指示された のである。伸一は、戸田の決意を虚妄にしたくはなかった。いや、絶対に してはならないと、心に深く決めていた。戸田に代わって、弟子の自分の 責任で、75万世帯は成就してみせると思うと、闘志がわき、力がみなぎ るのであった。・・・・・師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流 布に生きる師の生命の脈動が流れ通うといってよい。・・・・・・そして、 この月、蒲田支部は二百一世帯という未曾有の折伏を成し遂げたのである。 “やればできる!”誰もが大歓喜のなかに、そう実感した。蒲田支部の壮挙 は、触発の波動となって全国に広がりこれが75万世帯達成への突破口と なった。 池田先生のスピーチから 「1997年1月31日全国代表研修会池田名誉会長のスピーチより」 若き日に、私は地区の役職も、男子部の班長も、一つ一つすべてやりきっ てきた。45年前、昭和27年の一月、24歳の私は蒲田支部の支部幹事 の任命を受けた。当時、学会の折伏は思うように進まず、戸田先生は「こ のままでは、広宣流布は何千年もかかってしまう」と嘆いておられた。 ゆえに弟子の私が先頭にたって、折伏の山を登り始めたのである。・・・ 私は、言った。「小泉支部長を日本一の支部長にしてみせます!」と。私 は、まず自分が動いた。自分が挑戦した。アパートの隣人達にも皆、仏法 を語った。この折りに入信された方々から、今も懐かしい便りをいただく。 そして任命の翌月の2月、わが蒲田支部は当時の100世帯の限界を一挙 に打ち破って、201世帯の日本一の弘教を堂々と果たしたのである。こ こから全国に波動が広がり、戸田先生の願業であった75万世帯の成就へ 怒濤の勢いで前進が始まった。 学会興隆の原動力は永遠に青年の熱と力なのである。リーダーは、まず自 分が動くことである。自分が自分の目標に挑戦することである。自分がや らないで人にやらせるのは、ずるい。それでは自分の成仏はない。自分が 祈り、自分が語り、自分が法を弘めた分だけ、自分の生命を梵天・帝釈が 守る。大いなる生命力がわいてくる。智慧と功徳が、慈悲がわいてくる。 「第19回本部幹部会池田名誉会長のスピーチより」 学会の「伝統の2月」も、ただ「戸田先生にお応えしよう」という一念か ら始まったのである。当時は、戸田先生が会長になったものの弘教がなか なか進まなかった。先輩達は威張っていたが何もできない。そこで戸田先 生が「しかたがない。そろそろ大作を出すか」と決断された。厳重たる師 匠の命令である。「やります。」私は師の心を抱きしめて走った。 そして、いっぺんに、弘教の突破口を開き「道」を開いた。そこから今日 までの広宣流布の「大道」が開いていったのである。この師弟不二こそ、 学会の真髄である。随筆・新・人間革命(236)2001.10.4 広宣流布の新布陣 さあ前進!また前進! 皆の先頭を行く名将たれ 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」(御書一四 六三㌻)〈異体同心であれば万事を成就し、同体異心である時は何事もか なうことはない>これは、あまりにも有名な御聖訓である。この言には、 万般にわたって、また古今東西の歴史を通じて、不変の法理が光っている。 創価学会の組織は、「広宣流布」という、全人類の平和と全世界の人びと の幸福を築きゆく生命体であり、行動体である。これほどの偉大な使命を もつ組織は、永遠にない。この崇高なる法戦には、休日はない。多くの激 戦の山々を越え、常に勇猛精進し抜いていく、勇敢なる前進の仏の軍勢だ。 今再びの大前進を開始するためには、新たな活力と決意がみなぎる「布陣」 が必要だ。男子部も、男女学生部も、男女の未来部も、新リーダーのもと、 はつらつと新鮮なスタートを切った。 「女性の世紀」を先駆する婦人部も、女子部も、さっそうと笑顔の行進を 開始した。副理事長制が敷かれ、また方面、総県、県、区等にも多くの新 しき指導者が誕生した。現在、さらに本部、支部、地区など、第一線の組 織にも、充実の人事が進められている。この時に、大事なことは、「団結」 の二字である。詩聖タゴールが、「人は、仲間とよく力を合わすことがで きないときには、ほんとうの能力(ちから)を失うものです」(森本達雄 訳)と指摘したように、団結なくして勝利はありえないからだ。 心を合わせることだ!祈りを合わせることだ!力を合わせ抜くことだ! もちろん、役職によって、表舞台に登場する人、陰で戦う人など、担う べき役割はさまざまであろう。しかし、皆が、尊き地涌の戦士である。 会長も、ブロック長も、広宣流布に生き抜く平等な「一兵卒」である。 そのうえで、学会の役職は「責任職」である。「広布拡大」を自らの使 命と定め、強敵と戦い、同志を守り抜く、勇者の紋章なのである。 ゆえに、役職を受け、その責任を遂行する学会活動は、汝自身の人間革 命を成しゆく尊貴な仏道修行となるのだ。 ◇ それは、西神田の旧学会本部の会長室であった。――当時の学会本部には、 きちんとした会長室などなかった。しかし、私は、戸田先生が常に指揮を とられていた場所を、「会長室」と呼んでいたのである。「大作、薄田の 支部幹事になって、いよいよ始めてくれないか」昭和二十七年の一月、戸 田先生は、折伏の少ない毎月の成果の現状を見ながら、「そろそろ大作を 出すか」と、私を蒲田支部の支部幹事に任命された。先生が第二代会長に 就任されて約九カ月。この間、折伏の拡大は、師の思いに反して、遅々と していた。いな、停滞していたといってよい。今こそ壁を被れ!勝利の突 破口を開け!私は、先生のご期待を、わが使命とし、猛然と決起した。 「任命から三カ月が勝負」である。戦いは、スタートダッシュの勢いで決 まる。怒涛の前進を誓い合った出発の会合は、大田の鵜の木の集会所であ ったと記憶する。そこで私は、第一線のリーダーの皆さんに、まず具体的 な目標を訴えていった。「組で二世帯の折伏を!」戦いの第一歩は、明確 な目標を決めることだ。目標が漠然としていては、誰もが〝自分の挑戦課 題″として受け止めることができない。ゆえに結局は、真剣になれないも のである。 また、目標を押しっけてはいけない。皆が「よし、やろう!」と納得でき るようにすべきである。それには、中心者自身が、自分の責任で、たとえ 一人になっても、掲げた目標は断じて達成するとの、決意を定めることだ。 その決定した心に燃え盛る情熱の炎が、皆の胸に、広布に戦う心を燃え上 がらせていくのである。 ◇ 当時は、「支部―地区―班―組」という組織の体制が整備されたばかりで あった。「組」は最前線、今の「ブロック」である。最前線のリーダーに 自信と責任感を――それが戸田先生のお心であり、私も、ここに学会が飛 翔する焦点があると確信していた。支部の百人近い組長全員が主役に!皆 が勝利者に!一人が百歩前進するよりも、百人が一歩前進を!私は、一つ の「組」も落とさない決心で、一人ひとりが功徳を実感できるようにと、 祈り、支部内を縦横無尽に走り回った。 新しい人材を見つけ、新しい力を結集する。そこに勝利のカギがあるから だ。組織というと、人の顔が見えない大きな機構をイメージをしがちだが、 学会の組織は、あくまで「人」である。班や地区の幹部など、あらゆる幹 部が「組」に入った。座談会も、「組」なら顔が見える。指導も、「膝詰 めの対話」なら、各人の悩み等に的確にこたえていける。そのなかで発心 した一人ひとりが、雄々しく弘教に立ち上がっていったのである。 ◇ ともあれ、号令だけでは、誰も動かない。いわんや、人間は感情の動物だ ともいわれる。嫌々ながらでは、本当の力など出るはずもない。まして、 支部幹事とはいえ、私は二十四歳の青年にすぎなかった。どうすれば、皆 が本気になって総決起してくれるのか。それは、全責任を担った、若き私 の行動だ。自らの必死の汗だ。そして結果だ。その姿に、同志は喝采を送 り信頼を寄せてくれるのだ。わが姿を見よ!わが戦いを、しかと見てくれ! 青年らしく、戸田門下生らしく、私は決然と立ち上がった。 そして奮闘した。御聖訓には、「例(ためし)には他を引くべからず」 (同一二二〇㌻)とも仰せである。他人ではなく、自身の戦う姿が共感と 納得を生むのだ。 ◇ 支部幹事の私と、支部長の小泉隆さんとは、よく連携を取り合い、戸田 先生の構想実現へ、心を合わせていった。支部幹事は、「副役職」であ る。支部長と同じ目的観、同じ理想に立ち、支部長を補佐するのが役目 である。「支部長を支え、必ず日本一の支部に!」私は、支部幹事の模 範をつくろうと戦い抜いた。「位置が人を高尚にせず、人が位置を有名 にす」とは、西洋古代の蔵言である。役職が、人を輝かすのでは断じて ない。人が、役職を光り輝かせるのだ。役職によって自分が輝くと考え るのは、〝権威主義″である。 「虎の威を借る狐」の生き方であり、結局は、役職の価値を下落させる ことになる。一カ月後、この二月の戦いの結果が発表された。わが蒲田 支部は、二百一世帯の堂々の第一位!当時、一カ月で百世帯を超える折 伏もできない支部が、ほとんどであった。その限界を悠々と突威して、 大勝利を飾ったのである。つまり、「組二世帯」という前代未聞の折伏 を達成したのだ。皆が唖然とした。いかなる苦難の山々を越えようが、 勝てば、いっさいは歓喜と充足に変わる。皆の顔が、それはそれは紅潮 し、喜び勇んでいた。なかには、躍り上がっている組長もいた。その姿 が、何よりも、私は嬉しかった。 ――来年五十周年となる「二月闘争」のことは、これまでも語ってきたが、 大事な歴史であり、再度綴らせていただいた。 ◇ 「活動することが人間の第一の使命」(山崎章甫訳)と、文豪ゲーテは言 った。さあ、行動開始だ!わが広宣流布の尊き名将たちよ!完勝で飾った 二十一世紀の第一ページに続き、汝自身の新たな前進と栄光の功徳の歴史 を、堂々と書き続けていってくれ給え! 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