投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月18日(水)20時00分21秒   通報

━━━新しいアメリカンドリームを築くことです

――OneWorldwithSensei――.

アメリカSGI.
アリススタイン・ターリーさん.

☆「地下鉄道」の車掌☆

私は、人種分離政策をとっていたケンタッキー州ハザードで、炭鉱採掘に従事す
る家に、10人兄妹の5番目として生まれました。

黒人のみの学校と教会に通い、白人を目にするのは通りすがりの一瞬だけ。
13歳のころには人種差別の意味を理解していました。

1962年、小学5年の時、人種差別撤廃の法律により、白人と一緒の学校に通
うことに。通学初日、母は、私や兄妹をぴかぴかに飾り立てましたが、スクール
バスが私たちを迎えに来ることはありませんでした。

何マイルも歩いて学校に着きました。いつも教室の一番後ろの席でした。

高等教育や有為なキャリアを目指すという考えを語る私の仲間はいなくて、私も
69年、高校卒業後すぐ結婚しました。

87年、2度目の離婚の後、仕事も車もお金もなく、住む家を失う寸前のシング
ルマザー。

途方に暮れているころ、軍隊に入り韓国に駐留していた妹が、信心を始めました。

私も入会し、間もなく、よい仕事、車、家を見つける事が出来ました。
当時の私は、幸せな人生を送るには、これらが最も重要なものと信じていました。

しかし、90年にまた職を失うと、仕事がどうにも見つかりません。
私は実家に戻り、家族や親族と過ごしたのですが、その折に初めて、幼い頃から
耳にしていた言い伝えがピンときたのです。

南北戦争(1861~65)前、奴隷制が合法であった時代に、南部の奴隷州から
北部の自由州やカナダへ、幾万人もの逃亡奴隷を助けた「地下鉄道」という秘密
結社があり、逃亡者を誘導した人々を、鉄道用語にちなんで「車掌」と言いまし
たが、曾祖父モーゼス・ターリーが、その「車掌」なのでした。

命がけで、多くの奴隷をひそかに逃がすモーゼスの勇気と知恵。夏休みに訪れる
祖母の農場で、わくわくしながら聞いたその話を、もっと知りたくなりました。

少し調べてみると、思ったより大きな話です。同時に痛感したのは、余りにも多
くの黒人が自分の過去を知らないこと、その一つの理由が、書き残された資料が
全くない事でした。

失敗しても助かっても、生死に関わる秘密の逃避行は表に出しにくかったのです。

価値に気づかれないまま家族だけに伝わるレジスタンス(抵抗運動)の口承、秘密
の逃亡路や隠れ部屋などがたくさん眠っているはずなのでした。

☆39歳から大学へ☆

“大学に通えば、黒人の歴史をもっと深く学ぶことが出来る”と感じた時、私は既
に39歳でした。

人生を変えるには遅すぎる・・・・・。

けれども、諦めきれなかった私は、一心に題目をあげ続けました。可能性はほと
んどありませんでした。

でも、池田先生は言われています。

『三世永遠の生命から見れば、全部、いい方向に、幸福の方向に、成仏の方向に
向かっているのである。妙法を確信するべきである。
目先の現象にとらわれて、信心を曇らせてはならない』

2年後、私を大学へ通わせてくれるという会社の計らいで出願、合格は出来たも
のの、3ヶ月後、今度は、学業に専念した方がいいという理由で解雇されてしま
いました。

生活はどん底に陥り、部屋の明かりをつけることさえままならない時もありまし
た。

出来る事と言えば、ただ御本尊の前に座り、涙を流すことだけでした。

でも、学会活動が勇気を与えてくれました。題目を唱え、池田先生の指導と御書
を拝し、わが地区の同志と共に活動しました。

信心の先輩の、”困難が大きいほど勝利も大きい”との言葉通り、どんな解決不能
に思えることにも信心の実証を見て来ました。

嬉しいことに大学から全額、奨学金が提示されました。ただその条件が、卒業後
はこの大学で教えること、でした。

大学院まで進むなんて考えたこともありませんでした。年を取りすぎている、そ
う感じていたのです。

でも、大学からの重ねての申し出に、もう言い訳は出来ませんでした。

学費は免除されても、生活費は別。また働き始めましたが、ケンタッキー州歴史
保護協会が私を採用してくれたのです。

ケンタッキー州の「地下鉄道」の舞台となった場所や資料を発掘する仕事です。

ここで培った経験が、後に「地下鉄道」関係者の全米及び欧州、カリブ海にまで
及ぶネットワークをつくり、「地下鉄道」としてアメリカに存在する、全ての現
場をつなぐ出発点となりました。

唱題で挑戦し、成功したのです。

━━べレアカレッジ人種間教育センター初の所長に就任━━

☆自分の中に仏法が☆

私はフルタイムで働きながら12年間で、社会学、人類学、行政学、アメリカ史
で、学士と二つの修士号を取得し、ついで、2009年8月に博士号を取得。

モーゼス・ターリー(曾祖父)のことと、私が幼い頃から聞いていた物語とに重
点を置いて「地下鉄道」の歴史を綴った私の博士論文は、それまで「地下鉄道」
についての記録資料が殆どなかったケンタッキー州の模範資料となりました。

博士号を取得した直後に、ルイビル大学の准教授と同大学「地下鉄道研究所」所
長の職に請われて就任しました。

一つ一つの悩みを乗り越えてきた、私の最大の功徳は、
自身の生命には無限の価値があり、その無限の価値を引き出す”仏法”という完璧
な手段を持っている、ということに気が付いた事でした。

11年11月、アメリカ南部で初めて、アフリカ系アメリカ人の男女学生と教職
員を受け入れた大学、べレアカレッジに、教授職の空きがあり、家族や友人、私
の博士号審査員だった方々に強く後押しされ、願書を出しました。

絶対に選ばれる、との決意の祈りを重ねました。

間もなく審査に呼ばれましたが、異人種間教育の専門家でもない歴史家の私が、
どう話したらいいのか悩みました。

祈り、決意を深め、活動に励みました。

ある日、唱題していると、私の書架にある人権教育を特集した「SGIクォータ
リー(SGIの英文季刊誌)」と、池田先生の著書『創価教育提言集』が目にとま
りました。

その内容を手掛かりに、大学における人種間の平和と調和についてのビジョンを
まとめあげ、面接に臨む事が出来ました。

「人種間教育と多人種コミュニティーの未来を実現」と題して、1時間半にわた
り大学側に意見を述べ、質疑に応えたのでした。

12年3月、べレアカレッジの、カーター・G・ウッドソン人種間教育センター
の、初の所長に任命されました。

学生、教員、運営側の間に人種間の平和と調和の文化を創出し、多額の予算をも
つセンターの運営、向上を指導し、学生たちに教えるというのが、私の仕事です。

私は、祈りがどうして叶わないのかと思いながらも、
いつももっと素晴らしいことが起きる事を経験してきました。

仏法とは抽象ではなく、自分の行動、努力の瞬間瞬間の中にあることを体験して
きました。

私には夢があります。
新しいアメリカンドリームを築くことです。

このセンターを東ケンタッキー随一の、平和、人種間の調和、文化理解を深める
場所としていくことです。

私は夢を捨てません。
人材育成推進や平和と相互理解の文化に寄せる、
池田先生の指導をわが使命として、新しい平和の時代を開いていきます。