投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2017年 1月18日(水)17時18分49秒 編集済

【第2回】池田先生とイタリアのフィレンツェ

聖教新聞2009年7月12日

永遠の「勝利の都」を勝ち築け

黒革のサイン帳
夜の帳がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラーピ」
の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。
1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を迎え
ていた。

テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこで
は、東洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストヘの気配り、人
の話を聞く態度。どれも一流である。
“ただ者ではない”。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで

、名物のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。
「シニョーレ(お客さま)」
プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。
「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。
詩人、音楽家、画家……。名だたる著名人のサインが記されていた。

あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。
東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。
支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。さっとペンを走らせた。
「山本伸一」

青年の都たれ!
この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。ペンネームでサインし、
「芸術の都」に敬意を表した。当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割
が青年である。ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざ
わざ露天で麦わら帽子を買い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみ
れた役員の青年に手渡した。

アルノ川沿いのカッシーネ公園。
すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。S
GI会長が振り返った。「悪いね。私は何でも速いんだよ」陽気で、マイペース
なイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜けてきたことに、
少なからぬ衝撃をおぼえた。郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学
の学生と石畳の坂を歩き、カフェでエスプレッソを傾けた。

「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、
後だったか」学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサン
スの詩人の魂を、若い胸中によみがえらせた。フィレンツェの会員宅。イタリア
に、マリファナやコカインが広がっていることが話題になった。深刻な社会問題
だったが、それを食い止める哲学がなかった。

SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避は
ない。正面を向くのが仏法だ」イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年
に3万人になった。81年を起点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。フィレ
ンツェの青年が起爆力になった。バチカンの枢機卿イタリアのバチカン市国は、

広さ約0・44平方㌔。東京ディズニーランドより小さい。世界最小の主権国家だ
が、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。枢機卿セルジョ・
ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリスト教信
徒事務局のトップである。72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、
強烈な印象が消えない。

バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポー
トが届いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。文化や教
育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。
社会運動家としてみても精力的である。“信頼できる。教皇は池田会長と会うべ
きだ……”第262代ローマ教皇パウ口6世との会見が決まった。

75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、
欧州議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人であ
る。

“何かあったな……”ピニェードリは直感した。サン・ピエトロ大聖堂に近いロ
ーマ教皇庁舎の一室。枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェード
リは現れた。「池田会長は、お会いできなくなりました」原田稔の声が大理石の
床に響く。枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。「そうですか。残念
です」出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことがで
きたに違いない。

SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。「教皇との会見をキャン
セルしたのは、池田会長が初めてです」枢機卿ピニェードリが微笑んだ。ただ、
なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。「理由は何ですか?」
ピニェードリの目が真っぐに見つめている。「……宗門です」枢機卿が大きくう
なずいた。

「やはり。思った通りです」世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。その構
図をバチカンは見抜いていた。勝利を刻む広間「この広間に、フィレンツェの勝利
の歴史を描いて欲しい──」宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジ
モ1世が命じたのは、16世紀なかばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間
を飾る壮大な絵画である。

すでに、ダーヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完
成に終わっていた。しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術
都市に整備したコジモ1世は、あきらめない。フィレンツェは勝った。この歴史
を描かせ、永遠に宣言したかった。命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広
間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シエナにおける攻防戦。

敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には
大将軍を魂とす」である。隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。この「五百
人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻である。まも
なく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モ
ラリスが待っているはずだ。

左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、S
GI会長を見つめている。この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。
「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴す
ると確信します」宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったことも
あったが、ルネサンスの都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。

2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。今日
は再び来ない天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステ
ージに拍手を送っている。1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化
会館で芸術音楽祭が行われていた。紳士の名はリベロ・マッツア。元内閣官房長
官である。第2次大戦中、ナチスの魔手から幾多のユダヤ人を救う。

フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。SGIに強く惹かれていた。麻薬
におぼれていた青年を次々に更生させているという。陽気な祭典にも感嘆したが、
SGI会長のスピーチにも唸った。「悪と戦わない人は正義ではない」「生きて
いる限り、私は戦う。行動を続ける」マッツアの心と強く共鳴した。これまで命
を狙われること34回。政界を退いてからも、マフィアと麻薬の撲滅のため戦って
きた。しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財で
ある。

SGI会長は、文化を護る人でもある。

イタリア政府が、国家的な顕彰のためにき出した。今こそ我らは「平和の同盟」
を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模範として!2006年1月
30日。東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィ
チャーレ章」が贈られた。公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっ
ている。その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代
会長の自宅があった。

若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。
「今日という日は再び来ないのだ」『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、
その通りだな」と微笑んだ。