投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月27日(土)08時36分7秒 返信・引用

フランスの詩人・哲学者シャルル・ペギー
(一八七三年―一九一四年。ユダヤ人であることを背景に不当逮捕された軍人・ドレフュスを救うため戦ったことで有名)。

彼はつねに「人間性の守護者たれ」と叫んでいた。
「人間性」は自然に育ち、自然に守られるものではない。
積極的に育て、守らねば、すぐに枯れ始める。「平和」と同じである。「文化」もそうである。

ペギーは、教師にも言う。「権力」の抑圧や誘惑に負けてはならない、と。
「小学校教員は市町村において政府の代表者となってはならない。人間性の代表者となることこそふさわしい。総理大臣がどれほど重要なものであろうとも、小学校教員が市町村において代表するべきものは総理大臣ではない、大多数を代表すべきである」

「かれは詩人と芸術家の、哲人と学者の、人間性を形成し維持する人びとの、唯一にして較べるものなき代表者である。かれは確固たる文化の代表となるべきである」

彼が小学校教員を挙げている理由はいろいろ考えられるが、昨日お会いしたハーバード大学のルデンスタイン学長も、初期の《基礎》となる教育の重要性を強調されていた。

ペギーいわく、教師は、どんな詩人、芸術家、哲学者、学者も比較にならないほど重要な「人間性の守護者」「人間性と文化の代表」なのだ、と。
たしかに直接《人間をつくる》教師の仕事は、一切の文化の土台であろう。

そのために教師は勉強を、と彼は強調する。使命が大きいことは責任が大きいことである。

「もっとも卓越した人々は、自己研鑽、勉強をやめなかった人びと、いまもやめない人びとのことなのである。苦労なくしては何も語れない。人生は永久の勉強である」

「教育は授けられない、それはみずから努め、人から人に伝えられる」

すなわち、教師みずからが努力して自分の内側に獲得した文化が、人間から人間へ、教師から子どもに伝えられる。
決して、外側から権威的に授けるものではない――と。
ゆえに教師の内面の成長こそが、子どもの幸福である。教育の進歩であり、社会の進歩となる。

またペギーは「文明の危機とは教育の危機」とも言った。
文明と社会の危機とは、人間性の危機であり、政治的権力や宗教的権威に、人間性が押しつぶされるところに生まれる。
それは、教育の危機にほかならない。教員こそ「人間性の代表者」だからである。

ゆえに教育を守ることが文明を守ることになる。
教育を変革すいることが社会を変革することになる。
人間教育の興隆こそが《文明のバロメーター》なのである。
一見、どんなに教育が栄えているようでも、人間性の代表ではなく、権力の代表、経済至上主義の代表となった教育は《野蛮のバロメーター》にすぎないであろう。

その意味で、ユゴーは「学校を開く者は牢獄の門を閉じる」と言った。
学校を開くことは、社会に人間性の《光》を送ることであり、《闇》の象徴である牢獄を必要でなくする、と「教育」の意義を象徴的に表現したのである。

ユゴーは社会悪は教育の不足から起こると考えていた。
「だれがなりたくて犯罪者となるだろうか!」――当時の貧困や差別、偏った強圧的教育が人間をゆがめていると訴えたのである。

ともあれ「学校と牢獄」の対照は「人間性と権力」の対立を表しているように思えてならない。
そして、「人間性の代表者」として「権力の象徴」である牢獄の中で亡くなられた牧口先生の崇高な信心にあらためて感動する。

【ボストン勤行会 平成三年九月二十七日(大作全集七十八巻)】