投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 4日(日)20時57分21秒   通報
特集 宮本輝
昭和59年 PHP

自分の人生体験を人様に教訓めいてい語る資格はまだないが、37歳という短い歳月の中で味わった最大のやさしさとは何であったかを思い浮かべてみたい。
私は昭和47年の10月、25歳のときに、創価学会に入会した。自分が、得体の知れない病気にかかったことが一番の動機であるが、これほどまでに世間やマスコミに攻撃され続ける宗教は、あるいは徒鉄もない哲理を掲げているかも知れないと感じたからであった。
私が小説家になろうと決意したのは、それから3年後であり、蛍川で芥川賞を頂戴したのは、さらに3年後であった。芥川賞を受賞して半年ほどたった頃、私は創価大学で池田先生とお逢いした。
池田大作氏は私にとって師匠であるから、ここでは先生と書かせていただくことにする。

よく晴れた日で、大学の構内には、私と同年輩の友人たちが集まって日なたぼっこをしたり、とりとめのない話に興じていた。すると、遠くから池田先生の近づいてくる姿が見えた。先生は私たちの前で立ち止まりひとりひとりに近況を聞き、激励をし握手をかわした。
だんだん私の方に近づいてくる。ところが、先生は私に目もくれず、私をとばして、隣の青年と話をし、これから大学生たちの催すフェスチバルを見ようと語った。私だけを外してである。
私は先生と一瞬目が合うたびに何かしゃべろうとするのだが、口を開きかけると、先生はじつに鮮やかに視線をそらしてしまう。とりつく島もない。みんなは先生とともに去ってしまい、私一人が残された。私は腹が立った。先生が、わざとそうしたのであることは判った。判っただけに、よけいに腹が立ち「なにが池田大作だ。えらそうにしやがって」と思ったのである。私は電車に乗ってホテルへ帰る道すがらも、ホテルに着いてからも、腹が立って、腹が立ってしかたがなかった。

そのうちに、なぜ池田先生が、私にそうしたのかを考え始めた。私は、自分が少し恥ずかしくなってきた。俺は芥川賞作家なんだぞという言葉が、私の中から聞こえてきたのである。自分はなんという嫌らしい顔をして、先生の前に立っていたことだろう。先生は、そんな私のすべてを、瞬時に見抜いたのだ。ああ、俺はなんというちっぽけな恥ずかしい人間だろう。俺は自分の頭の後ろに、
「芥川賞作家でござい」という看板を立て、弟子の分際で師匠を待ったのだ。それに気付くと、私は転げ回りたいほど、恥ずかしくて恥ずかしくてたまらなくなったのである。あした、たとえ池田先生に「宮本輝なんか知らないよ」と門前払いされようとも、自分は自分の非を遠くからお詫びをし、ご挨拶をして大坂に帰ろうと思った。翌日、私は、再び創価大学へ行った。ちょうど大学祭の日で、先生には来客が多かった。しかし、校舎の廊下で私は先生とお逢いすることが出来た。
先生は私を見るなり、自分の方から歩み寄ってこられ、「きのうはごめんね」と小声で言われたのである。私はまだ何も言っていない。自分の驕りや非礼をお詫びすることばをひとことも口にしていないのである。そして「私と君の間には、世間の肩書きなんか、なんの関係もないんだ」と、
そう言われたのであった。私はこの7年前の出来事を生涯忘れないだろう。

あの時、池田先生に叱られていなかったら、私は青二才の分際で、芥川賞の看板を盾に一人前の作家ずらをして闊歩し、天下を取った気分で驕り高ぶるつまらない作家のままで終わったに違いない。
あの時の、先生の叱責は、おそらく、私のこれまでの人生で受けた最も大きな優しさである。
この小さな地球のさらに小さな日本の中で、一時的にもてはやされ肩書きを付けられても、それがいったい何だろう。『世間の肩書きなんか、なんの関係もないんだ』これは人生を考える上でも、
深い意味を持つ言葉だと思う。人間を育て、蘇生させる優しさには、強力なエネルギーを必要とし、
まず先に相手を理解する深い懐が必要だ。いま人々は叱ることが下手になった。裏を返せば真実の
優しさをも忘れたと言えるのかもしれない。
(創価新報(1999年9月6日付け)「私のなかの創価学会 宮本輝」)