投稿者:寝たきりオジサン 投稿日:2016年12月 1日(木)21時51分52秒   通報
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Sensei――

アメリカ

『WORLD
TRIBUNE』紙から

人生の十字路から━━━ 人間革命と再起への旅立ち

アメリカSGI
ガリソン・フィーウェルさん.

◎世界の前衛ギタリスト
7人に選ばれる実証!

【全てを失って】

1990年、離婚し、家も貯金の全ても失いました。

私はボストンのバークリー音楽大学の音楽教授でしたが、気が付けば友人の
家に住み、三歳の息子アレックスと前妻を扶養するという大きな問題に直面
していました。

信心以外の全てを失ったと感じました。

夏休みには、生活費のため、ボストンの高級街ニューベリー通りで家の掃除の
仕事をしました。同僚か学生たちに、ギターではなく、バケツやモップを手に
した姿をみられないか心配でした。

自分の悪業の炎に焼き尽くされそうな思いを何度もしましたが、勝利のため、
息子を守るために、必要ならなんでもやるのだと、唱題しました。
彼のためには、敗残した父親になりたくはなかったのです。

毎朝、生命状態を上げ、きょうも1日希望を持ち、お金の業をどうにかして
変えたいと、毎朝祈りました。夜は活動に参加し、全力でメンバーを激励。
けれども、家に帰ると、やり通せるか疑問がわいてきます。

私は、ともすれば自分の成功の評価や確認を外に求めがちで、その結果、
音楽家あるいは教職の仕事で自分の価値を確認しようとして、結末は、
音楽界と学術生活の厳しい現実に幻滅する羽目になるのでした。

この頃の私を励ましてくれた御書の一説です。

「天台云く『従藍而青』云々、此の釈の心は、あい(藍)は葉のとき(時)
よりも・なおそ(染)むれば・いよいよあを(青)し、法華経はあいのごとし
修行のふか(深)きは・いよいよあお(青)きがごとし」
(御書1505㌻)と。

この精神で、池田SGI会長の弟子として、自身の心の限界の壁を打破する
決意をしました。 翌91年9月、池田会長がボストンを初訪問。
ハーバード大学で講演をされました。

その時刻に合わせて数時間の唱題を決意。御本尊の前で私は思いました。
池田会長は身をていして世界を回り、広宣流布のために何ものも惜しまず
人を激励されている。

それならば、自分はもっと強く戦い、悪業を打破し、人生を変えなければ、と。
師弟不二の心で祈り、広宣流布への自身の使命を前進させる自分らしい何かを
やり、師のたゆみない平和努力を支えようと誓いました。

具体的には、ギタリストとしての仕事で仏法実践の実証を示そうと、かつて
なく強く決意したのです。

【奇跡のコンサート】

唱題が終わるとすぐに、ボストンでも有名なジャズクラブに電話しました。
そのエージェントは、それまで一度だって電話に出た事がありません。
ところが驚いた事に、エージェントが電話に出て「何か用か」というのです。

「あなたのクラブでコンサートをしたい」と言うと、彼の答えは、「ほかに
バンドのメンバーは誰?」全然、話の準備が出来ていなかった私は、思わず
幾人かの有名なミュージシャンの名前を口走っていました。

エージェントは同意し、日取りと、私が普段、演奏で手にする金額の4倍の
ギャラを提示してくれました。しかし、電話を切り、われに返ると、
困りました。共演をお願いもしていないミュージシャンたちは、結局、都合が
つかないのでした。

祈るうちに、確信が大きくなり、もっと有名な、セシル・マクビーとか、
何度もグラミー賞にノミネートされているジャズビアニストのブレッド・
ハーシュといったミュージシャンに電話しました。

最終的には、彼らが皆、やってくれることになったのです。私は、自分の
スーパーバンドを立ち上げ、コンサートに間に合いました。ある良き同志で
先輩の人が、そのコンサートをレコーディングしたら、と激励してくれました。

自信もお金もなかったのですが、もし、御本尊の前で自分の生命を開き
切れたら、何かが起きるかも、と思いました。私は、御本尊の前で、挑戦を
決めました。すると思いがけなく、資金のメドが立ちました。

今まで一緒にプレーしたこともないこんな有名なミュージシャンたちと、
自分の初のレコーディングが出来たのです。コンサートは、完璧な成功でした。
初回の演奏が録音され、池田先生に送り、そのタイトルを、先生の詩の題名
にもある「青は藍よりも青し」としていいかお尋ねしました。

その詩には、「広布の大河の流れが.歴史の必然てあるか否かを.君よ問う
なかれ.汝自身の胸中に.自らの汗と労苦により.広布を必然たらしめんと
する.熱情のありや無しやを.常に問え」とあります。

先生は快く了解され、私は、レコードを、師弟の勝利のために献呈しました。
そのレコードがリリースされた93年に、先生はボストンを訪問され、
ハーバード大学で、2回目の講演をされたのです。

そのレコードがボストン音楽賞の「ベスト・ジャズ・レコード・オブ・ザ・
イヤー」を、そしてUPI通信社と雑誌「コーダ」から「年間レコード・
トップ10」を獲得したのです。

この時、会合で先生の前で演奏するというビッグチャンスをいただきました。

【師との出会い】

状況にチャレンジし続けるなかで、私は、もう、自尊心のために教育者としての
仕事やミュージシャンとしての成功に寄りかかるということはしない人間に
なっていました。同志には、どんな人にも、世界に貢献できる、その人ならでは

の価値ある何かが、内面に秘められているのだと、激励しています。
私の音楽的、個人的な功徳は、この内面の変化を反映しています。
私は今、ボストン方面長として活動し、幸せな再婚をし、ボストンのサマー
ヴィルの美しい新しい家に住み、別邸もあります。

息子のアレックスはバークリー音楽大学を卒業し、ミュージシャン、バンド
リーダーとして成功し、演奏活動をしています。私を支え続けてくれた、忘れ得ぬ
思い出があります。

85年、SGIの研修で訪日した時のこと。私は、私の支部のメンバーの弘教の
決意と署名の寄せ書きのカードを持っていました。先生に手渡したかったのです。
でも、先生が出席される会合では、私はいつも、先生から一番遠い席。
あきらめずに祈り続けました。

その時の会合も、遠い出口付近の席でした。心で唱題していました。入場された
先生は、突然、後方へ向かい、私の前で歩みを止められたのです。私がカードを
差し出すと、先生はそれを会場に向かって高くかざされました。

「ベストを尽くします」と言う私をじっと見つめられる先生の眼差しは、
” これは少しも不思議なことではありません。祈って不可能なことはないことを、
あなたも知っておられるでしょう?”と語りかけているようでした。

これまでに13のCDをレコーディング。有名メディアからの幾つもの「年間最
優秀レコーディング」賞などがあります。ジャズ演奏に関する書著が、世界最大の
音楽出版社であるハル・レナードとバークリー音楽大学出版部のベストセラーに
なりました。

また、各国の有名大学で教えています。
最近、フランスのル・ソン・デュ・グリズリ出版社から、世界の前衛ギタリスト・
トップ7人に選ばれました。私の名が、こんな有名ミュージシャンのグループに
入るとは想像もしませんでした。

本当に名誉なこと、驚くべき実証です。おそらく私がこの体験から学んだ最大の
教訓は、人生の十字路に立った時こそが、まさに人間革命し、自分をもう一度え
られる絶好の機会だということです。

私にとって、この軌跡は” 従藍而青(じゅうらんにしょう)”の道だったのです。

以上です。