投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月11日(金)11時25分24秒   通報
須田さん曰く

>世界に仏は釈迦仏一仏しか 存在しないとする小乗仏教に対し、宇宙には無数の仏が存在するというのが大乗仏教の世 界観である。
従って、ある仏の教えが有効性を失った時には別の仏によって衆生が救済さ れる道理となる。<

ここからは、私個人の考察です。

宇宙には数えきれない程の天体があり、しかも宇宙は無始無終に存在している様です。
そして正しい生命の真理は一つであるはずです。
それぞれの天体(高等生物が存在している天体)で仏法が流布するのに、最終的には必ずこの「凡夫即極」を説く「菩薩仏」が
末法の法華経の行者として現れるのだと思われます
そして、凡夫の即身成仏を可能にする「御本尊」(それぞれの天体によって形は違っても空、仮、中の三諦を具備した、
「人(その法華経の行者)法一箇の御本尊」を基調にした仏法が流布されていくシナリオになっていると思われます。
つまり、それぞれの天体で、まず釈迦的な使命の仏が一段階として現れ(その仏に縁する衆生との縁はそこで始まったわけではありませんが)
正法、像法時代と時が進み、最終的に、先に書いた様な究極の真理を説く、大聖人的な使命の仏(末法の法華経、の行者)が
その天体の宗教の進化を完結させるというシナリオです。それが一つの宇宙のしくみではないかと思われます。

いずれにしても、一念三千の法理からいえば、釈迦でも大聖人でも、凡夫の私達も、十界の全ての生命境涯の善悪の側面も
全て切り捨てる事なく具備していて、三世の因果の法則において永遠の輪廻を繰り返していくという生命の構造、機能は全く一緒です。
九界が切り捨てられた生命というのは現実には存在しないからです。(無始、無終の仏界と九界)

それを押さえた上で、それでもそれぞれの個々の生命には、三世間の内の「衆生世間」で表わされる様に、境涯のレベルには差がある訳で
何と言っても、釈迦や大聖人は、凡夫の私達とは境涯の差があるのは当然の事です。