投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年11月11日(金)11時28分24秒   通報 編集済
<人法一箇について>

仏法には「総別の二義」という大事な教判があり、この判別によって物事の核心に迫っていきます。
「総じて」とは一往の表面的な意味合いであり、「別して」とは再往の更に深く立ち入った立場からの見方です。
総別の判定は相対的なものでありますから、別判の中にも更に総別が論ぜられて究極には御本尊(仏の生命)に到達します。
この義によって「人法一箇」の法理を総別の二義で考察しました。

まず、いつもの様に(笑)空、仮、中の3諦に「人、法」を当てはめてみると「人」の側面は空、仮、であり、「法」の側面は、中、です。
「法」は不変で普遍なので全ての生命に共通です。「人」の側面には変化、進化、啓発、昇華があります。
では「人」とは具体的にはどういう生命を指しているのでしょうか。
私は「人」とは、総じていえば、「人」となる以前の全ての生命も含めた「諸法」全体を指すと思っています。
おおきく言えば宇宙生命そのものも円融の三諦そのものでしょうから、
宇宙に存在する全ての生命、例えば動物や植物から極小の微生物までも「人」(このレベルではまだ通常に言う「人」という
知的レベルまでは達していない生命も含む)という代名詞で一括します。
次は、「総じて」と立てた、その全ての生命体の中でも、「別して」言えば、仏道修行ができる知的高等生物である
「人間」(この地球上においては)が「人」になります。
今度は「人間全体」を「総じて」に約すと、「別して」とは、その中でも大聖人の仏法を修行している私達凡夫の個々の生命になります。
そして又更に修行者全体を「総じて」に約すと、「別して」とは大聖人や釈迦の様に「法ー不変真如の理」を悟り、「隨縁真如の智慧」
を拓き現した「仏」になります。

つまり、「人」の部分を最大限の「総じて」で言えば、自然界そのものの生命は全て「人法一箇=円融の三諦の生命」だと思うのです。
そして「人」の部分を究極まで昇華した存在が「仏」であり、究極のところ「別して」の「人法一箇=三身即一身」が
仏の生命体そのものであり、又仏の生命を御図顕した御本尊だと思います。

ですから私が思うのは、いずれにしてもこの世の中に「人(諸法)法(実相)一箇」ではないものは存在しないと思っています。
「人」がない「法」は実在しません。
そこから引き出すと、当然のことながら、仏の体を顕した御本尊も「人法一箇」でなければならないのは当然でしょう。