投稿者:粗還 投稿日:2016年11月11日(金)20時54分5秒   通報
■ “「三代会長」の敬称は、『先生』とする”

慣習で教師や医師などを儀礼的に「先生」と呼ぶことはあるが、日本語の「先生」は、一応、「先生」と呼ぶ対象(指導者など)への尊敬を前提とする。
尊敬の念は、愛情、信頼などと同じく内発的な感情で、本人がその気になるしかない、本人が自分で起すしかないもの。
強制やルールなどによって外発的に起せるものではない。
「先生」と呼ぶことも、本来は、呼ぶ当人の内発的な意思に基づくしかない。

会則などのルールで「“先生”と呼ぶ事」を定めようとすることは、師匠への尊敬、敬愛といった内発的な感情の発露をspoilする、台無しにすることにしかならないだろう。
本来は、「自分は三代会長を尊敬しているから三代会長を“先生”と呼ぶ」のはず。
ところが会則で「“先生”と呼ぶ事」を定めれば、「会則で定められているから三代会長を“先生”と呼ぶ」、また「三代会長を“先生”と呼ばないと組織から排除されるから“先生”と呼ぶ」向きも出てくるだろう。
“先生”と呼ぶ事は、もはや尊敬、敬愛の発露ではなく、組織における単なる形式になっていくだろう。
会則で「“先生”と呼ぶ事」を定めようとすること自体が、道理に反している。
■ 「今後、聖教新聞等の表記も『先生』の敬称を使用」(原田会長)

顕正会員との対話を考えてみたい。
顕正会員には、対話の中で、顕正会の浅井昭衛会長を「浅井先生」と呼ぶ者がいる。
その場合、こちらが「浅井昭衛」と呼び捨てにすれば、相手は感情的になり対話にならない。 「浅井さん」と呼んでも不服そうな顔をする者もいる。
かといって、相手に合わせて、こちらも「浅井先生」と言えば、こちらが自分を偽ることになる。
相手の感情をいたずらに刺激することなく、自分自身を偽らずに済むためには、やはり、ニュートラルな役職名で「浅井会長」と呼ぶのが妥当。
ただ、こちらが「浅井会長」と呼んでも、相手が「浅井先生」と呼んでいるならば、その都度こちらは相手との立場の断絶を意識させられる。
相手が、こちらの立場を配慮して(ニュートラルな)「浅井会長」と呼んでくれれば、対話はよりスムーズにいく。

こうしてみると、敬称の選択は、語る相手の立場への配慮が不可欠になることがわかる。
少なくとも規則で一律に決めるべきものではない。

話す相手が三代会長に敬意を抱いていることが明らかな場合は、三代会長を「先生」と呼んで構わないだろう。
しかし、そうでない場合に三代会長を「先生」と呼ぶならば、相手との立場、価値意識の断絶を強調することになり、相手を‘引かせて’しまうことにもなりかねない。

一応、創価学会員の間では三代会長を「先生」と呼んで差し支えない場合が多い。
が、総てがそうではなく、新入信者で三代会長のことをよく知らない人に「先生」と呼ぶことを要求するわけにはいかない。
また、学会員でも三代会長への思いは個々人によって異なる。 人によっては、「池田先生」ではなく、「池田名誉会長」と呼ぶ配慮が必要な場合もある。

信仰を共有していない相手と話す時は、相手の立場にも配慮して、「池田先生」は使わず、ニュートラルな役職名で「池田名誉会長」と呼ぶのが妥当だろう。

かつて、内部の活動家に向けたFAXや非売品の小冊子が、学会の組織内で配布されていた。 そうした内部オンリーの文書においては三代会長の敬称を「先生」と記しても差し支えないだろう。
しかし、聖教新聞など、一般に向けて販売し、非会員にも積極的に購読をすすめるような出版物においては、内部オンリーの文書と異なり、外部の読者の立場に配慮する必要があるはず。 即ち、「池田先生」ではなく、従来通り、ニュートラルな役職名で「池田名誉会長」「池田SGI会長」と表記するのが妥当。
客観性が求められる新聞報道であるならば尚更だろう。
「今後、聖教新聞等の表記も『先生』の敬称を使用する」という原田会長及び本部執行部の決定が非常識なものであることは明白。