2016年11月2日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)13時50分22秒 通報 障害児として生まれた子供の背負う宿命の重さや両親の悩みは、 その原因を染色体の配列や薬品等に置いて解決される問題ではないのです。 もし「たまたま運が悪かっただけ」とするならば、 自然の無差別の驚異に、ただ恐れおののく野蛮人となんら変わらないと思います。 たとえ自然界の現象に因果関係を認めていても、こと人生の問題になると、 生まれながらの差別を〝偶然〟とし、どのように生きようとも、 死ねば一切が〝無に帰す〟として、因果律を否定することは、 まったく非科学的な態度といえます。 このように生命それ自体の因果律を考えていくならば、どうしても仏法で説く 「三世の生命観・永遠の生命観」に立たざるを得ないのです。 生命とは〝生死〟を繰り返しつつ、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、 あとから偶発的に誰人かによって作られて生じたものでもない ――というのが、仏法の生命観です。 心地観経には「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。 未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」(御書二三一頁) とありますが、 ここでいう過去とは〝過去世〟のことです。 現在とは〝現世〟のこと、未来とは〝未来世〟のことです。 つまり、 現在における差別は、過去世の因による結果であり、現在の生命を因として、 未来世における生命が決定されるというのが、三世の生命観です。 しかしよく考えてみると、生命の因果論から見れば、生命は三世にわたるとしても、 どのような姿で連続するのかという疑問が残ります。 この疑問について、ある宗教では、死後は生命活動の場所を 「西方極楽浄土」であるとか「天上界」であると、 架空の世界を作って〝そこで生きる〟と提示していますが、 はたして本当にそうでしょうか。 ましてや実体を離れた霊魂などという存在も仏法では認めていません。 Tweet