投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)13時51分1秒   通報
大聖人は

「無も有も、生も死も、若退も若出も、在世も滅後も、ことごとく皆、本有常住の振舞なり。
・・・・(中略)されば、無死・退滅は空なり。有生・出在は仮なり。如来・如実は中道なり」

(七五四頁)と述べています。

仏法では、生も死も無始以来、常住する生命の変化の姿ととらえています。

生命は生によって初めて生じ、死によって永久に滅してしまうものではなく、

大宇宙とともに永遠に連続する実在であり、あるときは生を現じ、
あるときは死を現じているという考え方です。

つまり、

あるときは生命として顕在化し、あるときは死の生命として
大宇宙に冥伏(宇宙に溶け込む)しているということです。

この〝宇宙に冥伏する〟という発想がどうして出てくるのかというと、
仏法は宇宙自体が生命の存在であり、法則に貫かれたものであるとする考え方からきたものです。

有と無、生と死、出と退、在世と滅後、があるといっても
〝生の生命〟と〝死の生命〟は本来、初めから有るもので、

常住する生命の変化の姿を述べたものにすぎません。

ここでいう〝無〟とは、完全に無くなるということではなく〝空〟と同じ意味です。

生命は、あるときは有の状態、あるときは無(空)の状態で連続していく。

また、生の生命が〝出〟であれば、死の生命は〝退〟です。
つまり、生か死かは「出現するか、退いていくか」の違いなのです。

退いていくというのは、無くなってしまうのではなく、
大宇宙のなかに退いていくという意味です。

しかし、再び縁にふれて出現してくるのを生の生命というのです。