2016年11月2日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年11月 2日(水)13時49分40秒 通報 ある日、妻から「人間の生死の姿を三諦論で認識するとどうなるの ?」と質問された。 面倒くさい質問だなと思いましたが、大事な問題であることは確かです。 仏法における生命哲学では「生死の問題」をどうとらえているのでしょうか。 また三諦論で生死を見れば、どういうふうになるのでしょうか。 それを考えていきたいと思います。 まず、 生命は永遠に続くものなのか、それとも死ねば、一切が終わってしまうのか――。 大多数の人は、感情的には永遠に続くような気もするし、 どうしてもこの世だけのようにも思えるというのが、正直なところではないかと思います。 しかし、なぜ人は感情的に「永遠の生命」を意識するのでしょうか。 それは死への恐怖からなのか、それとも何か漠然と意識しているものなのかは 分かりませんが、案外、感情的・心情的に意識するものの中に、 じつは偉大な真理が横たわっているものです。 しかもそれが「万人に共通する」ものであればあるほど、その底には何かがあるものです。 特に現代は科学の発達した時代ですから、昔みたいに神話や寓話、 また妄想の類の話では、人はなかなか納得できないものです。 そこで登場するのが、現実主義的な生命論です。 つまり「生によって生命は始まり、死によって一切が終わる」という思想です。 しかしこれでは、なぜ人が生まれて来たとき、 すでに形態、能力、特性、障害などの差別があるのかという疑問が残ります。 この素朴な疑問に対して、科学者ならば染色体の構成をもって説明するかもしれません。 でもこれは差別を生じた変化現象の過程をたどったにすぎず、 なぜ差別ができて生まれてくるのかという根本的な原因は明らかにされていません。 Tweet