投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月26日(水)08時59分3秒   通報
〝仮諦〟とは、一切の現象を物質面、現象の変化の面から見ていく現実の姿です。

一切の現象は「因と縁によって和合(仮和合)」していると認識するのが仮諦です。

仮とは、一般的に言う<仮(かり)の現象>という意味ではなく、言ってみれば
「存在の変化」の面と「生成の発展」の面をいいます。

たとえば、私たちの肉体でいえば、さまざまな器官が独自の機能を果たしつつ、
全体の調和を保って、統一した生命体を形づくっています。

しかし死の訪れによってすべてが灰となり、塵となってしまいます。
このように、統一した生命体として機能している姿は「仮和合(調和)」としてとらえるのです。

〝中諦〟とは、統一(調和)された生命体としての存在を明らかに見ることです。

それを常住不変の実体と見ます。

たとえば、Aさんという人の肉体は仮和合で新陳代謝を繰り返し、瞬間瞬間に変わっていきます。
また、Aさんの心も瞬間瞬間に怒ったり、笑ったりしています。

しかし、この仮諦と空諦だけでは生命の真実の姿をとらえたとは言えず、
さらにそこには常住不変の生命を見ることができるのです。

どういうことかというと、

たとえば、少年の時、壮年の時、老年の時にも一貫して変わりないAさんという人格が存在します。
このAさんをAさんたらしめている実在を「我」といい、この本質に眼を開いていくことを中諦というのです。

中諦は不変の生命ですから「我(根源・一切の成り立つ原点)」といえるわけです。

・・・つづく (たぶん夕方)