2016年10月22日 投稿者:ジョーカー 投稿日:2016年10月22日(土)00時51分32秒 通報 あくまでも参考程度、思索の糧として読んでください。 誰でもわかるように簡潔に書きます。単純に考えて、御本尊を顕すことができるのは、御本仏(日蓮大聖人)以外にはありえないのではないか。御本尊とは、御書に、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(p1124)とあるように、日蓮大聖人そのものであることは明白です。釈尊の魂ではなく、日蓮の魂であることに、甚深無量の意味があるのでしょう。 そして御本尊の中央には、「南無妙法蓮華経 日蓮」とあるように。法本尊である南無妙法蓮華経と、人本尊である日蓮が並んでいる。もしも法本尊のみであるなら、題目を唱えれば、信心があってもなくても変わらない結果を得られる。しかし、人本尊という概念は重要で、大聖人の魂(心)に反する(信心がない)と、功徳は生じない。大聖人を悪しく敬うと、それは信心のない者の祈りであるので、正しい御本尊であろうとも、ダメなのです。 では、正しい信心とは何か。それは、三代会長の指導を守り、実践するということです。もちろん指導の量は膨大であり、様々な角度が存在する。一つの指導を、すべてのケースにあてはめたり、固執しすぎると、かえって三代会長の心を死すことになるので要注意です。 市井の臣様が仰るように、大聖人は謙遜されていると思います。末法という濁悪の世に生まれ、法華経の行者として、釈尊とは較べることのできないほどの大難を受けられた。あえて私は言いましょう。「釈尊では、大聖人の足元にもおよばない」と。正法時代の仏では、末法では通用しない。釈尊を遥かに凌ぐ難を何故受けられたのか。そして法華経で出現する地涌の菩薩が、釈尊よりも立派な姿をしていたのはどうしてか。よくよく思索すべしである。 石ころであろうとも一念三千の当体なので、仏界を有している。しかし、仏界があったとしても、湧現させることができなければ、ないのと同じである。仏界と云っても、現実には、人間だけが湧現させることができる。題目を唱えることが出来るのは、人間だけだからである。ここに人本尊の意味がある。御本尊とは、生命そのものであり、就中、人間なのである。 御本尊を顕したこと自体が、日蓮大聖人が御本仏であることの証左である。御本尊とは、南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人であり、そして、自分自身である。 Tweet