2016年10月7日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年10月 7日(金)12時50分4秒 通報 編集済 ※正義さん、横からすみません。汗 ■■【宮田は平成の日精について①】■■ 平成の日精 投稿者:正義の走者 投稿日:2016年10月 6日(木)22時49分19秒 宮田はどう見ても日精ですね。 釈迦本仏主義といい、曼荼羅一応本尊観といい、日精以外に例えようがない。 富士流をも一応認めながらも、本音には「造仏読誦」主義だった日精と、 日蓮本仏を真正面から否定せずに、釈迦本尊主義をやんわりと入れ込んでくるそのやり口もよく似ている。 京都から来て、富士の影響を受けた左京日教とは逆で、 京都から来て、富士に京風を持ち込んだ日精こそ、 宮田に譬えるに相応しい。 宮田論文は正に平成の随宜論。 日寛の末法相応抄は表向き日辰批判だが、本当の的は日精の邪義。 これに例せば、宮田を表向きの的としながら、本部の姿勢を破折する須田論文は正に平成の末法相応抄。 ■■【宮田は平成の日精について②】■■大仏のグリグリのとこ 大石寺十七世法主・日精(にっせい)は「京都・要法寺」出身で、十六世日就(にちじゅ)の弟子となり、 一六三一~三二(寛永七~八)年ごろに徳島藩主の夫人が江戸・浅草に建立した法詔寺の住職となっています。 そして、あろうことか この日精、その寺になんと「釈尊の仏像」を造立したのです。 日精は一六三二(寛永九)年、法を継いで貫主になっていますが、 仏像を造立したことを批判する声が高まったのに対し、造立を正当化した「随宜論(ずいぎろん)」を書いています。 その中で、大聖人が仏像を造立しなかったのは、諸所を転々とされて居場所が定まらなかったためであり、 「日蓮の本意ではない」と主張して、釈迦像造立が堕地獄の因とするのはまちがいであると結論付けています。 大石寺第五十九世・堀日亨は 「要法寺からきた法主・日精に至って江戸に地盤を構えて末寺を増設し、教勢を拡張するに乗じて、 ついに造立読誦(仏像を造立し、法華経一部二十八品を読誦)を始めて、全く当時の要法寺流としてしまった」 (富要九)と述べています。 そもそも日興上人が身延を離山し富士方面に来たのは、身延の地頭が釈尊の仏像を本尊としたことにあります。 そして日興上人は、地頭を強く批判し、日蓮大聖人が図顕した曼荼羅本尊のみが「信仰の根本」であると主張しました。 つまり、釈尊の仏像を本尊とすることは「日蓮日興」に背く大謗法なのです。 まさに日興上人が危惧していた「仏法に相違して己義を構える」貫主が出現したのです。 しかし当時の宗門には、おかしいと批判する声はあがっても 「用いてはならない ! 謗法だ !」 と、貫主を強く呵責する信心のある者はいなかったのです。 その後、日精は信徒の有力者と仲違いをしたため、大石寺を捨てて江戸の末寺に移っています。 大石寺はそれから三年間、貫主が不在という異常な状態が続いたのです。 これによって大石寺は住職不在となり幕府の朱印(しゅいん)改めを受けられなくなったので廃絶されそうになりました。 そこで相承を受けていない貫主が誕生します。十八世・日盈(にちえい)と、十九世・日舜(にっしゅん)がそれです。 彼らは付嘱を受けないで「法主」の座に座った仮の貫主だったのです。 つまり、相承など受けなくても貫主が務まったということです。 富士門流を邪義によって濁らせたうえ、個人の感情から貫主の座を放棄し、 平気で大石寺を捨てて廃絶の危機を招くという「大謗法で無責任な法主」や、 付嘱のない形式的な法主など、信心のうえからはとても考えられないような「破法貫主・失格貫主」が宗門には何人も存在していたのです。 なお、末寺に造立された仏像は、一六八三(天和二)年に日精が死亡した後、 ようやく要法寺出身の二十二世・日俊(にっしゅん)・二十三世・日啓(にっけい)等によって撤廃されたようです。 それまで六十年近くもの間、末寺には仏像が祀られていたのです。 そのため、後に大石寺の僧侶が要法寺の仏像造立を批判したとき、逆に日精が仏像を造立した事実を指摘され、 バカにされたという情けないことも起こっています。 要法寺出身の貫主が九代続き、日蓮大聖人滅後四百年を過ぎたころの大石寺は、まさに法滅状態そのものでした。 そして、日蓮大聖人滅後四百三十七年、第二十六世・日寛が登場するのです。 Tweet