投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月20日(土)10時08分6秒 返信・引用

大聖人は南条時光からの御供養に対して、こう仰せである。
「いつもの御事に候へばをどろかれず・めづらしからぬやうにうちをぼへて候は・ぼむぶの心なり」(御書一五一二頁)

――(御供養をいただくことが)いつものことでありますので、驚きもせず、珍しくもないように思うことは、凡夫の心です――。

大聖人は、「御供養は当然」と傲る過ちを、明確に指摘しておられる。
そして、在家の多忙な身で、社会状況も生活もたいへんななか、供養されたことは、三世の諸仏を供養することであり、一切衆生の生命の眼を開く功徳となると、時光の志をたたえておられる。

そもそも、門下への大聖人のお手紙に必ずといってよいほど、御供養の品の名が連ねてある。
このお手紙でも、冒頭に「むぎひとひつ」「かわのり五条」「はじかみ六十」いただきましたと、ていねいに一つ一つ挙げられている。

それらの「品」にこめられた「心」を大切に、いつくしむような筆づかいであられる。
当時の、いわゆる高僧の手紙で、大聖人のようにされた例はない。
信徒の「真心」を大切にされる、このお心を受け継ぐ者だけが、大聖人の真の門下であろう。

御本尊への供養を自分や家族のぜいたくのために利用したり、供養して当然と傲ったり、いわんや脅して供養を強制したりする者がいれば、大聖人に師敵対する謗法の者であろう。

【各部代表協議会 平成三年九月十九日(大作全集七十八巻)】