2014年9月20日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月20日(土)09時53分14秒 返信・引用 大聖人は続けて、さらに門下に対しても、「同様である」と厳しく述べられている。 「今日蓮が弟子等も亦是くの如し或は信じ或は伏し或は随い或は従う但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者は設い千劫をば経ずとも或は一無間或は二無間乃至十百無間疑無からん者か」 ――(不軽菩薩をバカにした者たちは、あとで信伏随従したが、謗法の罪のほうが強くて、まず阿鼻地獄に堕ち、千劫の間、大苦悩を受けた)。今、日蓮の弟子等も同じである。ある者は信じ、ある者は伏し、ある者は随い、ある者は従う(信伏随従している)。しかし、ただの名目ばかりで(格好だけで)心中に染めぬいていない信心薄い者は、たとえ千劫までいかずとも、一劫、二劫ないし十劫、百劫の間、無間地獄で大苦を受けうことは疑いないであろう――と。 大闘争の時――弟子も試されているのだ、と。 信心は格好ではない。大聖人は繰り返し「心こそ大切いなれ」(御書一一九二頁)と教えてくださっている。 うわべのみつくろって、戦っているつもりになっているだけなのか、「法」のため「正義」のために、身命を捨てて広布に進んでいるのか。 奥底の一念の違いは、必ず結果になって表れる。 「是を免れんと欲せば各薬王楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば五体を地に投げ?身に汗を流せ、若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め若し爾らずんば奴婢と為つて持者に奉えよ若し爾らずんば・等云云、四悉檀を以て時に適うのみ、我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず」 ――もし(堕地獄を)免れようと欲するのであれば、おのおのが薬王菩薩の(修行の)ように、臂を焼いて仏に供養し、楽法梵志のように身の皮をはいで供養せよ。雪山童子のように(法のために)身を投げ、檀王(王位を捨て法を求めた)のように(師に)心を仕えさせよ。さもなくば五体を地に投げ、全身に汗を流せ。さもなくば珍しい宝をもって仏前に積みなさい。さもなくば下僕のごとく法華経の持者に仕えなさい。 さもなくば……等々、すべては「四悉檀」(世界、偽人、対治、第一悉檀〈仏が法を説くために用いる四つの方法〉)の教えのように、その時に最もかなった修行をしなさい。 わが弟子のなかにも、信心薄き者は、臨終の時、阿鼻地獄の相を現ずるであろう。その時になって私を恨んではならない――と。 厳しいお言葉である。 大聖人の末弟を名乗る者は皆、襟を正して拝すべきであろう。 われらは、日蓮大聖人に「信伏随従」していくべきなのである。 信心の中途半端はない。 外敵の襲来――この国難を、いち早く予見し、実際に国に守られたのは、日蓮大聖人であられる。 しかし、社会も、また多くの弟子でさえ、その大恩と偉大さを深く感じることができなかった。 「雖近而不見」(仏が近くにおられても凡夫にはわざとみえないようにすること〈開結五〇六頁〉)と法華経に説かれるとおりであった。 大聖人は、その愚かさを嘆かれ、厳愛の叱咤をなされたのである。 大聖人は民衆を、あらゆる「災難」から救うために戦ってくださった。 「災難対治抄」には、大地震、異常気象、大飢饉、大疫病、大戦争などの「災難」を「対治」する方途を説かれている。 その結論は――。 「速やかに謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈祷有りと雖も災難を留む可からざるなり」(御書八五頁、以下同じ) ――(災難をとどめるには)すみやかに謗法の者を対治すべきである。もしも、そうしないと、限りなく祈ったとしても、決して災難はおさまらない――と仰せである。 それでは、どうやって謗法を対治するのか。(「問うて曰く如何が対治す可き」) 大聖人のお答えは 「施を留めて対治す可しと見えたり」 ――謗法への供養をやめて、対治すべきであると(経文には)ある――であった。 謗法への供養は、悪をはびこらせることであり、正法と民衆への敵対行為になってしまうとの教えと拝される。 【各部代表協議会 平成三年九月十九日(大作全集七十八巻)】 Tweet