投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月20日(土)09時52分19秒 返信・引用

ここで、根本である御書を拝したい。
文永十一年(一二七四年)十二月の「顕立正意抄」には、同年十月に「蒙古襲来」の予言が的中したことを、大聖人は次のように記された。
「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来する所をば朝に賢人有らば之を怪む可し、設い其れを信ぜずとも去る文永八年九月十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符合せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る」(御書五三七頁、以下同じ)

――去る文永五年に蒙古から牒状(国書)が来た時、もし、この国に賢人があれば、(安国論の他国侵逼難の予言の的中は)不思議だと気づくはずだ。
たとえ、それで信じられなくとも、去る文永八年九月十二日、御勘気(国家の咎め。ここでは平左衛門尉一味による大聖人逮捕)を受けさせたい、自界叛逆の難を予言し、翌年二月十一日にそのとおりになった(二月騒動)。心ある者ならば、この時に信ずべきではないか。
いわんや、今年、現実に蒙古が襲い来て、壱岐・対馬の二国を奪い取った(文永の役)。(これでもまだわからないのか)――と。

「設い木石為りと雖も設い禽獣為りと雖も感ず可く驚く可きに偏えに只事に非ず天魔の国に入つて酔えるが如く狂えるが如く歎く可し哀む可し恐る可し厭う可し」

――たとえ心なき木や石であっても、たとえ鳥やけものであっても、(大聖人の予言の的中の偉大さを)感じ、驚くはずではないか。(その事実を目のあたりにしながら、そうしないのは)ひとえにただごとではない。天魔がこの国に入って、みな酔っぱらっているようであり、狂っているようである。嘆くべく、哀れむべきである。恐るべく、いとうべきである――そして、このままでは必ず地獄に堕ちると断言されている。

「委細に三世を知るを聖人と云う」(御書九七四頁)と。
今やだれの目にも明らかとなった大聖人のお言葉の正しさ。
その、《事実》を前にして、どういう態度をとるのか。
いわば、大聖人を尊敬するかどうかの試金石であった。

もとより次元は異なるが、わが学会は、妙法を世界に、「平和」の大波を起こしてきた。
「文化」と「精神」と「民主」と――時代を先取りし、時代を創ってきた。
「共に生きる」時代へと、人々の心を結びつけてきた。
心ある人々は、その人類への貢献に瞠目し、絶大の評価を寄せている。

今、そうした大貢献を、ありのままに認められるか否か。
崇高な本質を見抜く目をもっているかどうか。
ある人が言っていた。《本物かどうか、試されているのは、むしろ周囲のほうである》と。

【各部代表協議会 平成三年九月十九日(大作全集七十八巻)】