投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月14日(水)19時14分49秒   通報
<法 報 応の三身(ほっぽうおうのさんじん)>

衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり 之を説き顕すを
一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す。此を開会と云い此を自行と云う、
又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕いて成仏の理無し
   三世諸仏総勘文抄 p573

通解
われわれの生命は、本来、空仮中の三諦を具備している。だが、仏果を成ずるときは、空諦はそのまま報身に、
仮諦はそのまま応身に、また中諦はそのまま法身にと転ずるのである。そしてその三諦を総の三諦と悟る時に
成仏する。総の三諦こそ円満の理であり、他宗はその理を差し置いているので成仏はできない

大聖人の仏法は「報中論三(ほうちゅうろんさん)」-報中、三を論ず、と言い、「報身」を主体として、
法報応の三身を論じます。
法華経に三身を説くといっても、正しく自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)を正意とするのであり、
その意味で報身を中心としての「一身即三身」を説き「三身即一身」を説きます。

少し前に現在の学会板と以前の経本の比較をし、それを投稿しましたが、
次の様な言葉が現在の学会板の御祈念文では外されています。
ここに人法一箇の御本尊、法 報 応の三身(ほっぽうおうのさんじん)の呼び名が書かれています。

 御本尊様の本質について - 久遠元初、自受用報身如来の十界本有常住、事の一念三千、人法一箇
 大聖人様の本地について - 本因妙の教主、一身即三身、三身即一身、主師親三徳、宗祖

もとより「御本尊様の本質」と「大聖人様の本地」は同じでありましょうが、御本尊様の説明の場合は、
法体(法の全体)としての普遍的な立場から
大聖人様の場合は「仏」という人間の立場からの説明かと思われます。
全ての生命に、時も場所も超えて普遍的(久遠元初くおんがんじょ)に存在する「仏界の境涯」は自由自在
(自受用)の成仏の境涯(報身如来)を表した事の一念三千、人法一箇(にんぽういっか)の御本尊。
その成仏の境涯を「仏」として現実に生き、慈悲(主師親三徳)の生涯を証明した宗祖、日蓮大聖人。