投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月14日(水)19時16分33秒   通報
<成仏の法理 - 総の三諦(開会した三身)>

之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す、、、とはどういうことか?

ここからは私の個人的な考察です。

では、法報応の三身は、本当はどこにいるのか、、実は法報応の三身は、凡夫の三諦の身のままで南無妙法蓮華経
と唱える胸中の肉弾に確かに存在していると大聖人はおっしゃっていると思います。

当然、大聖人や釈迦などの仏界を強く確立した「仏」とは差があるのは当然だが、三身の鋳型は、どの境涯の生命
にも、時と場所を超え、いつでも拓ける可能性を持って存在しているのである。。
それを凡夫即極と言い、そしてそれを成ずる時に成仏するのであるとの御金言ではないでしょうか。

私は、ここが大聖人の仏法の究極部分だと思います - 凡夫即極です。
御自分も三諦を捨てていない、九界も捨てていない、立派な菩薩仏との宣言ではないでしょうか。

仏界に登ったまま帰ってこない仏はいない。
本当の仏は九界の苦労の真っ只中で価値創造し、民衆にすこしでも抜苦与楽(ばっくよらく)の
功徳を与えていく、その行動の中に本当の仏がいると大聖人は教えてくれているのだと私は思っています。

日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、 仏の御意(みこころ)は法華経なり
日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし
  経王殿御返事 p1124

此の御本尊全く余所(よそ)に求むる亊なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団に
おはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり
   日女御前御返事 P1244

「然(しか)れば久遠実成(くおんじつじょう)の釈尊と皆成仏道(かいじょうぶつどう)の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと
解(さと) りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」
   生死一大事血脈抄 p1337

以上ですが御質問、御意見などありましたら、よろしくお願いします。