2014年9月17日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月17日(水)12時50分16秒 返信・引用 日達上人は、次のように述べられている。 「我々は今幸いにしてよその宗旨から比べれば非常に豊かになってきて、みんな楽な生活をしておるのである。昔から『衣食足りて礼節を知る』という言葉がございます。今我々が普通の世間の僧侶からみると、十分衣食が足りております。衣食が足りて驕慢になってしまったらたいへんなことである。どこまでも慎重にして、そして常に謙虚な心を持ってお寺を守り、信者を大事にし、また、学会の人たちもたいへん身をすり減らして、そして宗門のために広宣流布のために働いておるんだから、どうか信者を大事にしていっていただきたいと思います。」 日達上人の炯眼は、鋭く未来を見抜いて警告されていたのである。 また、そう言わざるをえないという状況が、そのころ、すでにあったということであろう。 僧侶が、このとおりに実践していたら、今回のような問題はとうてい起こらなかったであろう、と多くの人が言っていた。 現実は、日達上人が指摘されたとおりに、衣食が足り、生活が豊かになったことで、逆におごりたかぶった僧侶が、広布に励む信徒を見くだすようになってしまった――これが、今回の問題の大きな原因であろうと、このお言葉に照らせばよくわかる。 また、日達上人は、こうも述べられている。 「僧侶はとかく信者が折伏して信者を連れてくる。それに対してご授戒をして法要をする。そうするとお寺も信者がふえることによって、みな裕福になっていくということは当然でございます。しかし、それに甘んじておってはいけないのである。甘んじるばかりか、かえって連れて来た信者を非常に悪く取り扱う。こういうことは僧侶として恥ずべきことであると私は思うのであります」 「先日ある寺院において、せっかく信者が折伏してご授戒に連れて来たのに、今日は休みですといって断ったお寺があります。そんなお寺は私はいまだかつて聞いたことがない。お寺に休暇があるということは宗務院からだしたこともなければ本山もないはずである」 さらに日達上人は「これではせっかくの学会の人が折伏して汗水たらして連れてきた人に申し訳ない。止むを得ず、その人は時間をかけて他の寺へいってご授戒してもらってきた。そういうことが頻繁とあるならば、私はそういう人を処分しなくてはならん。僧侶として寺院をやっていく値打がないじゃないですか。みなさんどう思いますか」と。 ――《日達上人のお言葉からすると、処分されなければならない僧がたくさんいるのに、だれも処分されない。この日達上人の精神は今どうなってしまったのだろうか》と憂える声も多い。 日達上人は続けて「ただ金さえ持って来ておれば、お寺が繁盛すればそれでいいか、それは通らないと思います。だから一方からいえば、僧侶は金ばっかり貯めておる。ある人は億に近い何千万の金をもって裕福に暮らしておる。我々はめしも食わないで折伏して歩いておるということを信者の人から言われてもやむをえないじゃないでしょうか」と戒められている。 これは、今から十八年前の指摘である。 当時、すでに僧侶の一部にみられた金儲け主義の体質が、現在では全国的に広がっているようである。 われわれ信徒ばかりでなく、世間の人々からも顰蹙をかうような、最近の多くの僧侶の醜行を知られたら、日達上人がいかばかり嘆かれることであろうか。 そうした一方で、折伏・弘法に励む学会員を、冷酷に見くだしながら、言葉をたくみに誑かし、隷属させようと狂奔している罪は、御書と歴代上人の教えに照らして、あまりにも重いであろう。残念なことであるが、文証の上から、そのことは明白である。 さらに、この時、日達上人は、僧侶が学会員を横取りしてはならないと、いわゆる《檀徒づくり》を厳しく戒められている。 「一寺の住職であるといっても、寺のことや宗門の学問のことは充分にわきまえているけれども、社会の生活面においては誠に疎いのである。だからたまたま信者が、たとえば学会の信者でも法華講の信者でも、その幹部の指導が気に入らなくてお寺へきていろいろ生活指導を求めてくる人があるように聞いておりますが、お寺としては世間的生活指導はむずかしいのであってできることではない。世間の生活の本当の苦しみを知らないからしてそれはできないはずである。それを口先だけでもって指導しようという根性は今後やめてもらいたい。 もしそういうことができたならば、どうか幹部の方へいってくれ、学会ならば学会の幹部へいってよく相談しなさい。また、法華講なら法華講の幹部へいってよく相談してもらいたいとはっきり言ってもらいたい。そこをあやふやにして、ああだこうだと自分勝手なことを言って、しかもその人を自分のものにてなづけておるということはもっとも危険な考えと思うのであります」 「今まで学会なり法華講なり、十分に指導しておるのを横取りして、つまらない人情にかられて自分の子分にしようという根性がもしあるならば、今日以降止めていただきたいと思うのでございます」 日達上人は、社会生活の苦悩を経験していない僧侶に、信徒の生活指導はとうていできえないことを明確に認められている。そしてそれにもかかわらず、信徒を口先だけで手なずけようというのは危険な考えであり、誤った心根であると、厳しく《檀徒づくり》を禁止されたのである。 ともあれ、どこに「正義」があり、「広宣流布への正道」があるか。 それを過たず見極めていかねばならない。 そのために大切なのは、大聖人の教えを皆が学び合っていくことである。 また、正しく伝え合い、励まし合っていくことである。 【島根県代表幹部会 平成三年九月九日(大作全集七十八巻)】 Tweet