2014年9月17日 投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月17日(水)11時13分12秒 返信・引用 編集済 過去にも正信会の悪侶たちが、法主を絶対化し、その権威をふりかざして学会員を迫害した事実を、私どもは絶対に忘れることはできない。 世間でも、権威、権力をもつ存在に、追従し阿諛した(相手の気に入るようなことを言ってへつらう)者が、虎の威を借る狐のように、民衆を見くだし、圧迫した例は、古今東西の歴史に枚挙にいとまがない。 大聖人は、「佐渡御書」において、次のように御指摘である。 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり」(御書九五七頁) ――畜生の心は、弱い者を脅して、強い者を恐るのである。今の世の諸宗の学者は、畜生のようなものである。智者が弱い立場であることを侮り、よこしまな王法(権力)を恐るのである。諛臣(こびへらう家来)というのは、こういう者をいうのである――。 悪侶たちは、まさに畜生のように、権威をかさに、信徒を見くだして、誹謗し、脅し、迫害したのである。 複雑な理論を展開するまでもない。 たとえば、牧口先生は、時の日恭上人の立ち会いのもと「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と申し渡され、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と拒否し、これがもとで投獄され、獄死された。 時の法主の意向に「信伏随従」しなかったわけである。 《法主の言葉には絶対服従すべきであり、それが正宗の根本の一つ。 従わないのは、すべて謗法》と主張する人は、牧口先生の殉教も、戸田先生の入獄も、すべて謗法の結果だというのだろうか。 冷静に考えれば、すぐにわかることである。 「極端な服従は服従する者における無知を前提とする」という、モンテスキューの有名な言葉がある。 権威や権力に、無条件に服従するということは、服従する者が無知のために、それが当然のように思い込んでいるだけの場合が多いのである。 それではあまりにも愚かである。自分も周囲をも不幸にする。 正法を信ずる者は、賢明でなくてはならない。 正義を装った邪義に、決して誑かされてはならない。 そのためには、あくまで法の道理を基準にすることである。 仏法の本義をもととして、正邪、善悪を正しく判断することである。 あまりにも明確であり、論ずるまでもない「基本」であったかもしれない。 しかし最近、この「基本」を忘れている人が多いようだ。そこで少々語らせていただいた。 (中抜) ここで正宗の僧侶のあり方について戒められた御金言と、歴代上人のお言葉を確認しておきたい。 それを知っておくことが、大聖人の門下としても誤りなく正道を歩みゆく力となるからだ。 それにしても、私は正宗を外護しぬいてきた一人として、この十年間、さまざまな僧の振る舞いに対する批判もあったが、何があっても心の内につつんできた。 大聖人は、「但正直にて少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」(御書一〇五六頁) ――ただ、正直であって、少欲知足(欲望が少なく、少しのものを得て満足すること)である僧こそ、真実の僧なのである――と、僧侶の道を示されている。 この御文を拝して、日享上人は、「正直とは邪曲の反対であろう」とお述べである。 この場合の「正直」とは、一般にいう、心が正しく素直なこと、偽りのないこと、という意味よりも、むしろ「邪曲」(よこしま、不正、非道)の反対で、正しい、正義、正道、という意味であろう、と。 すなわち、真実の僧とは、第一に「仏法の正義を貫く」僧でなければならない、ということである。 いかなることがあろうとも、大聖人の仰せのまま信行に励み、広宣流布のために身命を惜しまず邁進する者こそ、真の仏弟子といえるのである。 したがって、正法を持つ僧侶の姿はしていても、大聖人のお教えに背き、広宣流布を妨害し、正法を弘める学会の破壊を企むような非道を行う者は、不正直の僧であり、邪曲の悪侶なのである。 日享上人は、さらに「少欲とは五欲を少なくすることで、眼に色を見、耳に声を聞き、鼻に香を嗅ぎ、舌に味わい、身に触れる五感の欲情を恣に貪らぬ事で、最小限の生活の必要に五欲を止むる事ぢゃ、其の最小の限界を、其身其身にとりて過不及なく適度に受用するのが、即ち足ることを知る知足である」と述べられている。 すなわち、少欲知足の「少欲」とは、五欲(色欲・声欲・香欲・味欲・触欲)を少なくすることであり、眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身に触れるという五感の欲望を、ほしいままに貪らず、生活に必要な最小限に止めること最小の欲望を、自分にとって適度に用いることである、と教えられている。 ぜいたくな暮らし――それ自体が、大聖人の仰せによれば、もはや「真実の僧」ではない証拠なのである。 いわんや、時代の違いはあるにせよ、信徒以上の、世間の多くの人々が驚くようなぜいたくな生活を、どうして大聖人がゆるされるであろうか。 さらに日享上人は、「自分は御開山日興上人三祖日目上人の重須上野の御事蹟を考えると、少欲知足の御苦労の跡の物体なさに暗涙に咽ぶことがある。 其は御開山の方も目師の方も農作を為されたようである、其御手作の瓜なんどを上野より重須の興師に献ぜられた事が度々ある、重須の方でも今年は畑が日焼け(=日照りで水が涸れること)で一つも瓜の顔を見ぬのに、珍しい物であると書かれた消息もある」とも述べられている。 日興上人も、日目上人も、みずから農作業にいそしまれ、畑を耕して野菜などをつくられるという、大聖人の仰せのどおりの「少欲知足」の御生活をされていたのである。 日目上人が手作りされた瓜を、重須の日興上人にお届けしたところ、《今年は重須では日照りで瓜が取れなかったので、珍しいものをいただいた》としたためられた日興上人のお礼のお手紙が残っている、と。 日興上人は、大石寺を開創された八年後の永仁六年(一二九八年)に、上野郷の隣の重須郷に御影堂を建立して、そちらへ移られた。 その後は大石寺を守って、実質的な座主の立場にあられた日目上人が、法務の余暇にみずから畑に出て瓜をつくり、師匠のもとへお届けしているのである。 その愛弟子の真心に喜ばれ、感謝されている日興上人。 まことに、うるわしい師弟のお姿である。 同時に質素な生活を苦にするどころか、悠々と楽しまれている両上人の御境涯の広さを拝することができる。 日興上人は「先師の如く予が化儀も聖僧為る可し」(御書一六一九頁)とも仰せである。 大聖人、日興上人、日目上人の末流と名乗りながら、信徒からの御本尊への供養をわが物として貪り、五欲のままに振る舞い、ぜいたくを当然のこととして、なおも貪る。 「少欲知足」の反対で、欲深く満足することのない「大欲不足」の僧といわれている人もいるくらいである。 大聖人、日興上人、日目上人のお嘆きはいかばかりであろうか。 【鳥取・島根代表記念勤行会 平成三年九月八日(大作全集七十八 Tweet