投稿者:河内平野 投稿日:2014年 9月17日(水)09時32分55秒 返信・引用

さて、大聖人は「四菩薩造立抄」で富木常忍に次のように仰せである。
「私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔破旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無限大城に墜つべきにて候つたなしつたなし」(御書九八九頁)

――個人のものではない(大事な)法門を、曲げて考える人は、ひとえに天魔がその身に入り代わって、他人を、自身とともに無間地獄に堕としてしまうのである。愚かなことだ。愚かなことだ――と。

御本仏大聖人の法門を、みずからの都合のいいように曲解するのは、天魔がその身に入っているのだ、と厳しく叱られている。
自分だけ地獄に堕ちるのではなく、罪もない人々をたぶらかして巻き込んで、ともどもに無間地獄の道を歩むのである。

私どもは、鋭くその正体を見破らねばならない。
続いて、このように述べられている。
「此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露すべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし」(同頁)

――この法門(末法は法華経の「本門の時」であるが、かといって迹門を捨ててはならないとの法門)は長年、あなたに申し含めてあるように、人々にも披露されるがよい。総じて、日蓮の弟子といって法華経を修行する人々は、日蓮のようにしなさい。そのようにされるならば、釈迦仏、多宝仏、十方分身の諸仏、十羅刹女も必ず守護されるでしょう――と。

「人人にも披露あるべきものなり」と仰せのように、正しき法門、正道と正義を多くの人々に語り、伝えていかねばならない。黙っていてはならない。

「日蓮が如くに」との御指南である。
私どもは、この仰せどおりに、《信心は大聖人の時代に還る》決意で、正道を歩んできた。
大聖人も諸御抄に涅槃経の文を引いて「法に依って人に依らざれ」(御書二九四頁)と仰せである。

大聖人以外の「人」を根本としてはならない。
だれ人が御本仏のお心に背く法門を説いたとしても、われわれは決然と御書どおりの実践をすればよい。
そこにこそ、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、諸天の加護があるのである。
また、必ずや御本仏のおほめにあずかるものと確信する。

【山光総会・音楽祭、中国総会、宮崎県総会・合唱祭 平成三年九月八日(大作全集七十八巻)】