2016年9月9日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)19時04分8秒 通報 九識論を少し説明します。 現実に私達が生命を機能させている生命活動は、 「心識」が行なっています。 この心識を浅きから心の深底に向かって九つのレベルに分けているところから、九識論と呼ばれます。 そしてこれは一念三千、三世間の内の五陰世間にもあたります。 ちなみに「識」とは、心が内外の対鏡に対して、あれは何、これは何、とその違いを知る作用を言います。 生命の表面的な部分から順に、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つに各々の識があり、七識は深い思慮、 又は自我意識によって他と自己を区別し、又、死に対する恐れもここから生じます。 八識については、上記のインドのカースト制度のところで書いた通りです。 ここまでは、個人の領域が関与しているレベルです。 そして、天台宗や華厳宗が立て、大聖人も採用している説ですが、その個人の心識の領域を突き抜けて、更に その奥に「根本浄識」の第九識という宇宙大の領域があると説きます。 清浄無染の根本識、如来蔵識と言い、洗浄の二法が含まれている第八識とは、区別しています。 この第九識を「九識心王真如の都」と言い、心の王、つまり、真如を基調にした最高のレベルの心の作用、 仏の智慧、仏身で言えば報身如来、又、十界論で言えば仏界の境涯の心ともいえると思います。 真如とは真実にして虚妄を離れ、不変不改の妙法、中道、法性、仏性、生命です。 ( いつも単語の羅列のようですが(笑)生命とは本当は言葉では表せないので、いろんな角度から迫って、 できるだけ実相に近くなるよう試みていると思われます。あきらめないで下さい) 螺髪 さんの考察より 俯瞰(ふかん) >「清浄」に棹(さお)差し、俯瞰(ふかん)した時に、生命は「三千」を無駄なく、しかも適正に駆使 できるということなのではないでしょうか。それは、「三千」を「そのまま」空から見下ろす様子です。< >生命は、「一念三千」です。ここに、十界の一界も欠けずに成仏の「十界同時の成仏」の道理も現れます。 それは、地獄の厳しい生活を強いられ、取り巻く環境を嘆くだけだった人が唱題に挑戦し、みるみるうちに境涯を開き、 いつしか苦しみ喘(あえ)いでいた、かつての自分を“見下ろす”ようになって、かつての苦しみの時の経験さえも活かし 生活革命した例は数多くあります。これは、自身の十界三千を「俯瞰」したことにはならないでしょうか。< その通りだと思います。「九識心王真如の都」、心の王の「清浄」に棹(さお)差し、「法」である生命を俯瞰(ふかん)。 題目をあげ仏界を開いた境涯で価値創造の人生をいきていく、ということだとおもいます。 方等?(あまりよく分かっていませんが、たぶん)煩悩即菩提 等 >仏界は、他の九界と仏界までを含めた方等、あるいは俯瞰状況の生命状態を言ったものではないのか、ということです。< >「如蓮華在水」。「蓮華の水に在るが如し」(法華経従地涌出品第十五)。 蓮の華が汚泥の中でこそ、むしろ綺麗に咲き誇ることの喩えです。汚泥なのに蓮の中は「清浄」です。< 大聖人の仏法は、ただあるがままを受け入れて良しとする受け身の「根本清浄」ではなく、泥沼から 成長して、尚、美しい花を咲かす蓮華のように、積極的な智慧の「根本清浄」を追求し続ける努力の中に、仏界 の花が開くという教えではないでしょうか 反価値の生命境涯も抱え込みながら(煩悩や負の生命も切り捨てはしない)価値創造する。 Tweet