2016年9月9日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)06時08分25秒 通報 本筋に戻ります。 さて、パラドックスの話です。 「根本清浄」の追及です。 凡夫、煩悩、悪、迷い(無明)の顕現の可能性、と 仏、菩提、善、悟り(法性)の顕現の可能性が、両方内包された部屋で、しかも 法性の価値を出して、清浄に保ち続けるには? 私が思うには、それを可能にするには、そこには何らかの働きが必要と思われます。 しかもそれはじつは法の内部に内包されている「何か清浄な力」がにじみ出て、それが働いている時 その「場」は清浄になり、その働きが冥伏しているとき、無明が顔をだす。 いつか、どなたかが書かれていましたが、夜間の部屋と、電気の消滅の原理?です。 まず、「法」の部屋があります。その部屋には全ての生命の法則があり、全ての生命に顕現できる全ての 可能性があります。 善も悪も無明も悟りもです。これらを、その部屋にある家具や電気製品などに例えてみます。そして、 その部屋には内部に電気のスイッチがあります。 このスイッチを「法の内部に内包されている何か清浄な力」に例えます。 スイッチを入れている時は、部屋は明るく全てが見えるので、部屋の全ての家具や電気製品も、 事故を起こすことなく使用でき、全ての価値を満喫できますが、電気のスイッチを切ると、部屋は 真っ暗になり、歩けば家具にぶつかってケガをする、電気製品の使用も危険、など、その家具や 電気製品自体が生命を傷つける可能性があります。 どの状況でも実際には、部屋自体は変わらぬ部屋であり、家具も電化製品も変わらずその価値を秘めています。 つまり、「法」自体は、全ての存在をはらみ、全ての可能性を秘めて存在しています。 たぶんそれは全ての差別も凌駕しているという部分で「法理上」の「根本清浄」と言えるかとおもいます。 それは「不変真如の理」であり「法身如来(ほっしんにょらい)」ともいえるのではないでしょうか。 そして、部屋のスイッチは、その「法」を善に誘導する為、眼の前を明らかにする光の「智慧」です。 光(悟り)が現れたら闇(無明)は消えます。しかし闇というのは当然なくなるものではなく、光のない反現象です。 その意味で光と闇のその体は一つです。私達の生命の二つの側面と言えるでしょう。 しかし、心配はいりません。 大聖人の正しい仏法の修行には、負の価値さえも善の価値に昇華させる偉大な力があります。 変毒為薬、転重軽受という法門があります。マイナスも一転してプラスの価値を生むことも可能です。 これが迷悟不二、煩悩即菩提、善悪不二です。 この光こそ、現実の生活の中で価値を創造していく為の智慧であり「事実上」の「根本清浄」と言えないでしょうか。 「隨縁真如の智(ずいえんしんにょのち)」とも「報身如来」とも呼び、そしてその住所こそ 「九識心王真如の都(くしきしんのうしんにょのみやこ)」なのだと思います。 Tweet