投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)19時07分31秒   通報
「根本清浄」ー 御本尊

南無妙法蓮華経には2つの側面があります。

不変真如の理ー不変の「法」一念三千の妙法
御本尊の中の多宝如来が表している

隨縁真如の智ー縁にしたがって、刻一刻と変化していく事象に対応した、幸福への生命活動、仏界湧現の事
御本尊の中の釈迦牟尼仏があらわしている

(語弊はあるが、解りやすく水に例えれば、水そのものは不変真如の理
波は隨縁真如の智である。)

大聖人は私達の仏界湧現の縁になる隨縁真如の智として、不変真如の理をあらわした「法体」の御本尊を
具象化して末代の私達に残して下さいました。
その御本尊の中央には、南無妙法蓮華経 日蓮とあり、人、法、一箇の久遠元初(くおんがんじょ)の仏
(時を超越して、元々我々の生命にも存在している仏)が顕現した、御自身の仏界の仏の生命を、余すところ
なく顕された御本尊です。

螺髪 さんの考察より

>「清浄」とは「信」です。私たち凡夫にとって「清浄」は「信」しかありません。そしてその「信」のために、
大聖人は「御本尊」を現して下さった。「滅後」のためです。「法華経」が釈尊滅後のための経典だったのと同じです。
大聖人在世は大聖人がおられたからよかった。「滅後」のために「御本尊」を現して下さったのです。
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは
南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く『顕本遠寿を以て其の命と為す』と釈し給う」(経王殿御返事P1124)
と仰せです。
「顕本遠寿を以て其の命と為す」と仰せです。「本遠寿」とは文底では久遠元初、つまり「根本清浄」です。<

日蓮が慈悲曠大(じひこうだい)ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、 日本国の一切衆生の
盲目をひらける功徳あり、無間地獄(むげんじごく)の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉
(かしょう)にもすぐれたり、極楽(ごくらく)百年の修行は穢土(えど)の一日の功徳に及ばず、 正像二千年の
弘通(ぐづう)は末法の一時に劣るか、是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、
春は花さき秋は菓(このみ)なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしらしむるに有らずや
報恩抄 p329

そして大事な事は御本尊への「信」によって顕現した仏界の智慧によって(以信代慧いしんだいえ)、自身の内と外
にある善と悪を賢く見抜き、現実生活の中で本当の慈悲の活動をしていく「応身如来」としての使命を果たしていく
ところに、私達の生命が少しでも大聖人の仏の心に近づいていくのだと思っています。

主人の曰く、予少量為りと雖(いえど)も忝(かたじけな)くも大乗を学す 蒼蝿驥尾(そうようきび)に附(ふ)して
万里を渡り 碧蘿松頭(へきらしょうとう)に懸(かか)りて千尋(せんじん)を延(の)ぶ、弟子一仏の子と生れて
諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微(すいび)を見て心情の哀惜(あいせき)を起さざらんや。
立正安国論 p26

主人がいう。
私は、非力ではあるが、恐れ多いことに大乗を学んでいる。青蠅(あをばえ)が駿馬(しゅんめ)の尾について万里を渡り、
緑の蔓草は松の枝先に懸って千尋の高さにまで伸びていく。仏弟子である私は、唯一の仏である釈迦仏の子として生まれて、
諸経の王である法華経に仕えている。どうして仏法の衰微を見て悲しまないでいられるだろうか。