2016年6月13日 稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 6月13日(月)10時17分8秒 通報 まず、不軽菩薩の説いた「二十四文字の法華経」と大聖人が弘通した「妙法五字(南無妙法蓮華経)」とは、 その表現は異なれども、一切衆生の成仏を実現しようとする意においては同じです。 また不軽の「像法の末」と、大聖人の「末法の始め」という時代は、ともに迫害が吹き荒れる悪世においても同じです。 さらに不軽は「初随喜の人」、大聖人は「名字の凡夫」として、ともに低い位の存在のために、人々に軽蔑され、 罵詈されながら迫害を耐え忍んで、万人の成仏の道を切り開いていく実践者であるというのも同じです。 これら三つの符合した事実から、 不軽品はその人(実践者)こそが、真実の法華経の行者であることを示したものだと考えます。 池田先生も不軽品を通して 「創価学会もそうです。民衆蔑視の日本の社会から、いつもバカにされてきた。 『貧乏人と病人の集まり』と軽蔑する人間も多かった。 しかし、戸田先生は『貧乏人と病人を救うのが本当の宗教である』と師子吼された。 金もうけの宗教は、金もちだけを大切にする。貧乏人なんか相手にしません。いわんや病人を集めて、何になりますか。 病院を開くわけではなし――。 真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。 一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。 この崇高な心のわからない人間からは、我々は『常に軽蔑されて』きました。 それでも、相手がだれであれ、我々は悩める人がいれば、飛んでいって面倒を見てきた。 抱きかかえながら『あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ』と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。 『一人の人』を身を粉にして育て、世話してきた。 まさに『常に人を軽んじなかった菩薩』です」(法華経の智慧五巻一〇五頁) と、草創期の「学会魂」を訴えています。 Tweet