投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時14分37秒   通報
これはあくまでも想像の域を出ませんが、

おそらく法華経が作成された当時の時代様相は、根本の師匠である釈尊を忘れて弥勒信仰が盛んに行われ、
本来、中心におくべき釈尊の精神(法)が薄れ、失われていった過程にあったのではないかと思うのです。

そこで法華経の作成者はもう一度「師匠根本・依法不依人」の原点にもどすために、
あえて弥勒菩薩に質問をさせることによって弥勒信仰を打ち破ろうとしたのではないかと思います。

私たちで言えば、
創価学会の永遠の指導者は創価三代の会長(師匠根本)であり、御書根本(依法不依人)です。

池田先生を中心にして弟子は皆「同心円(中心を共有)」で結ばれています。

当然ですが、成仏に上中下はあっても池田先生の弟子に上下はありません。
たとえ創価学会の歴代会長といえども、御書を離れて、三代会長の指導を離れて、仏法の正義はありません。

事実として日興上人の
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(一六一八頁)を身で読んだからこそ、

牧口先生は獄死され、戸田先生は牢獄に入り登山停止処分にされ、池田先生は宗門から破門されたのです。

もし「現会長の指導はイコール池田先生の指導である」という組織信仰がまかり通れば、
創価学会といえども日顕宗と同じように「現法主は現代の日蓮大聖人である」という邪義と同列になります。

このような組織信仰に陥らないために、常に「御書根本・師匠根本」の原点に返る戦いが必要なのだと思います。

この日興上人の厳命は、
師匠の遺命である広宣流布達成のためには「師匠根本・依法不依人で行け!」との永遠の指針であると捉えたい。

・・・・つづく