投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時51分5秒   通報
インドには、カースト制度というものがあります。憲法上は廃止になりながらも、現実にはまだ厳格に機能している、
インド社会の身分差別制度の事です。

最も悲惨なのは、この身分制度にさえも入らない最下層の不可触民1億3822万人(91年国勢調査)の人達のことです。
汚物の清掃や死体の処理、皮革の加工や洗濯、掃除など賎業視されていた仕事に従事していた者は不浄と見なされ不可触民
として位置付けられました。
彼らは数千年に渡って過酷な差別を強いられてきました。
支配者たちは彼らをいたぶり、物を奪い、慰み者にし、監視し、虐殺するのだそうです。

インドにはヒンドゥー教の「浄、不浄思想」と「業・輪廻思想」がありますが、この「業」の思想は私達が学ぶそれとは
かなり違っています。

一念三千、特に十界互具を説く法華経の「因果」論では、全ての生命に等しく存在している仏界の尊厳は、生まれや、
身分や、その他の差によって侵されるものでは有りません。

そして、宿業は、私達が自分で作ったものであるが故に、いついかなる時でも自分の手で転換できる、と教えます。
それは当然それぞれ個々の人生において、来世を待たずに今世でも環境や境遇を変える事は可能だという教えであり、
私達に無限の可能性を教えてくれます。
更に、生命はお互いに環境と干渉し影響を与えながら縁起の法で成り立っているのであり、依正不二であるところから、
私達自身も環境や社会現象にも自分の宿業の反映として責任を持たなければいけません。

つまり、社会や環境の中に、生命への軽視、人権の尊厳の剥奪、理不尽な不平等、環境破壊による安全保障の脅威
などがあれば、自分の宿業転換をかけてそれと戦う事が大切だと思います
それが、逆に自分を卑下するあまり、無気力な、社会のシステムの奴隷となっては逆効果です。

この法華経の「業」の教えとは逆に、インドのヒンドゥー教の教えでは、自分の生まれた身分や境遇は、過去の行いに
依って決まっている宿業であり、それは今世では変革できない。
だから、今世を忍んで耐えてこそ、来世において悪業が切れ、幸福が築ける。という宿業論を教えている様です。
つまり「宿業」「輪廻」の教えは、不可触民の人達を納得させる手段として、悪用されていたのです。
更に、この思想は、相当数の人口を抱えるインドの社会にとって、社会秩序を保つ為に利用されている部分もある様です。
つまり、全ての人々が自分の身分を宿業として受け入れ、自分の身分にあった職業だけをすることによって失業を防ぎ、
社会の秩序を護る、というものです。
そういう事から、このシステムは長きに渡って続いてきました。
問題は、この虐げられている、最下層の不可触民の事です。
かれらの人生は悲惨きわまりなく、人権や生命の尊厳などはないに等しいのです。