2016年9月9日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時49分19秒 通報 私が言う「静」の清浄とは、生命の濁りと直接対決はしないで、そこから離れることで「清浄」の海に浴することです。 つまり、他宗教の「清浄」とは、最初から悪の要素もない「神」への崇拝であり、その神を受け入れる人間側には、戒律を護る 修行などによって、自分の器をまずきれいにするか、神への「信」によって、器をきれいにして(しながら)から 神の清浄さを受け入れる、という様な修行がほとんどです。 大乗仏法でも、念仏は娑婆世界をきらって浄土にいきたがり、禅宗は諸法をきらって因果具時の蓮華の法を説きません。 小乗は「厭離断九おんりだんく」(9界の凡夫の生命を切って仏界に留まる)を到達点にしていますが、実際そういう世界 はありません。 外道に三人あり、一には仏法外の外道九十五種の外道・二に附仏法成(ふぶっぽうじょう)の外道小乗、三には学仏法の 外道妙法を知らざる大乗の外道なり - 一代聖教大意 p403 ですから、こういう宗教は、己心の悪、無明、又、ひいては外の悪とも戦うことを厭う傾向性がでるのは必然です。 其の方が楽だからです。 最近では、多くの国で仏教などが広まってはいますが、やはり上に書いた様に、汎神論的な外道(ウパニシャッド 哲学など)か、又、外道的な仏教(小乗教や大乗経の禅)などが人気です。 たまに英語ゾーンに住んでいるの元メンバー達が脱会した理由を述べているブログを見ていると、やはり、学会教学が 禅化してきているのを理由にあげている人も少なくありません。 メンバーに思想を学ばせない、外の世界の出来事に反応させない為には、禅宗はとても都合がいい宗教です。 Tweet