投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 9月 9日(金)01時47分57秒   通報
しかし、少し分析を加えれば、「神が全てである」説は,、諸法である個々の生命も含めて、全てのこの世の
現象世界は神の創造によるものであり、現実の実体をもつものではないとなれば、私達の個々の生命の中に、
揺るがない「根本清浄」なる神性(仏性)が自然に備わっているという事にはならず、それと同時に諸法そのものの
生命の永遠性が欠如してしまいます。
結局この考えでは、自分の外に神をみる宗教と変わらない事になります。

又、逆に「森羅万象が神である」という説は私達の生命に内在している悪や、迷いの生命をそのまま認めるだけで、
私達を価値的なもの、善の方向へと導いてくれる「根本清浄」の強い存在を同時に説いている訳ではないので、
どうやって生命変革をするかその方法は明確に示されていません。
開目抄では、中国の需家の事を引き合いに出して、道徳や仁、義、礼、忠孝の道を修する道をもって最善の徳と
していますが、親孝行ひとつとってみても、必ずしも親の望む事を受け入れる事がいい事とは限らない様に
その規範は絶対的なものではありません。

では大聖人の仏法はこの汎神論からすれば、どういう立ち位置でしょうか。

結論から先に言えば、大聖人の仏法の「根本清浄」とは「法=実相」であり、法とは「真如=不変の真理」であり
真如とは、一念三千の命であり、一念三千の命とは、私達の生命であり、私達の生命とは洗浄の二法も含んだ
凡夫の生命=諸法です。
ここで問題なのは「根本清浄」の規範である「清浄」さと「悪」や「迷い」「無明」の「濁り」生命をもった
ままの凡夫の生命が同座しながら、しかも「根本清浄」の価値が保てるというのは、通常の理屈にはあわないと
いうことです。

しかし、確かに大聖人の仏法は「諸法即実相」「実相即諸法」を説きます。円融の三諦を説き、十界互具をときます。
凡夫即極と説き、煩悩即菩提、善悪不二、生死不二、極め付きは迷悟不二です。反価値のものの統一です。

このパラドックスをどう理解するか、、。
私は大聖人の「根本清浄」は「動=積極的な浄化作用を内包している」の清浄であり、他の宗教が説く、静寂な
「静=そのままの状態での」清浄とは一線を画しているとみています。