2016年9月7日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 9月 7日(水)12時43分45秒 通報 また「聖人は所を去って帰ってこない(趣意)」(同頁)の文を、 日寛は〝国王の理に背くゆえ〟(日寛文段)と解釈しています。 国王とは政治を象徴した言葉で、その政治に道理が立たないということだと思います。 道理が立たない社会を支配しているのは〝力〟であり、力の論理は〝権力〟そのものです。 政治に力の論理が居座ると、その延長線上には必ず「敵を潰せ、敵を排除せよ」という 勇ましいスローガンとともに排除の論理が横行し、 その先にあるのが「戦争」であることは歴史が証明しています。 以上のことから、災難や戦争が起こる根本原因は、 権力者とか、民衆とかに関わらず、皆が正法に背いているからであり、 これをもって魔が来たり、鬼が来たり、難が起こるのだと大聖人は訴えているのです。 これが大聖人の平和論であり、根本思想です。 今は大聖人の生きた封建時代とは大きく異なり、世の中は民主主義の時代に変わりました。 もちろん、信仰の世界と政治の世界は次元が異なりますが、 政治も人間の営みである以上、多数決の考えを尊重する前に、 まずその大前提として、道理を重視していくことが出発点であり、人間としての原点ではないかと考えます。 もちろん、多数決の考えを尊重するのは議会制民主主義の精神です。 しかし、その前提には代表者は代表者としての振舞いという「義務と責任」が置かれているはずです。 その大前提を忘れて、ただ力の論理のみで押し通そうとするならば、 それはまさに権力の「奢り(おごり)」というべきものだと思います。 それと同じように、信仰者の立場で世界平和を目指す創価学会が、 御書や創価三代の指導を根本とせず、道理を無視して、力の論理で運営されるようになれば、 それこそ教団の自殺行為に等しいと言わざるを得ません。 Tweet