2016年8月12日 投稿者:一人のSGI 投稿日:2016年 8月12日(金)14時35分9秒 通報 真。桃太郎 様 >「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」 主張している側の言動、振舞い、誠実さを見ます。(ちょっとなんか言われたぐらいで、激情し、下衆な言葉で罵倒する人間を信用するなと言うことです。) そんな仏は居ません。< この件に関して、以前に書き溜めていたものを投稿します。 以下 大仏のグリグリのとこ様 遅くなりましたが、不軽菩薩についてのすばらしい講義の掲載、大変ありがとうございました。 私は、不軽菩薩について正しく全体を学ぶことは、大聖人の仏法を学ぶ上でとても大切だと思っています。 なぜなら、不軽菩薩の修行の中に、端的に大聖人の宿命転換の法理が示されているからです。 みんなに伝えたい事が多々あっても、現地において教材の少ない外国では、こうしてネットで配信してくれる方がいらっしゃると本当に助かります。 何しろ今の組織では、逆にこういう基礎教学をなるべく勉強させない様にしているからです。 この板が、たくさんのメンバーさんにとって、教学の研鑽、又いろいろな意見などを交換する場として、切磋琢磨して成長できる場になるなら、 これ以上のものはありません。 そして、私達メンバーが、お互いの力でそれをできるという事を執行部の幹部の方達に証明していくことは可能だと思います。 その中心人物の一人として、グリグリ様には長く頑張っていただきたいと願っています。(強制ではないですが、、、笑) 御書を、ボロボロになるまで勉強され、現在3冊目とのこと。 グリグリ様の、大聖人の仏法と共に生きてきた人生に感動をおぼえました。 今思えば、かつて草創期の幹部達は、いつでも御書を開いて会員を激励出来るよう御書を小脇に抱えていました。 日本でも似たような状況だと思いますが、今ではこの国では、そういう幹部は一人も見当たりません。 それどころか、わたしが2年程前に出たある地区の会合では、癌を患っているその地区の婦人部長の為に ”此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、’の一節が入っている「経王殿御返事」の 勉強を始めたところ、前理事長ととても友好の深い一人の壮年部が 「700年前に誰かに宛てた手紙を、今勉強する必要はない」と言って、 御書の勉強を批判していたのを覚えています。そしてこの感覚がこの国のトップリーダーの見解であります。(もちろんみんなに公言はしませんが、、) しかし、「真理」というものは、時や空間を超えて、普遍であり不変であるはずです。 御書にはその「真理」が網羅されています。 おっしゃられている様に、不軽菩薩について正しく学ぶことは、大聖人の仏法の修行の根幹を学ぶことです。 私が10年以上に渡って、こちらの地元のメンバーに訴えてきた事はこの事に他ならないといっても過言ではありません。 現在のこの国の執行部は、いろいろな基礎教義において、全体のメッセージの中から都合の悪い部分は割愛し、自分達の組織運営に利用できる部分だけを誇張し、 長年に渡って偏った指導をしてきました。 そしてこの不軽菩薩論も、現在の執行部に悪用されているいくつかの教義の中の一つです。 それを書く前に不軽菩薩について少しまとめてみました。 グリグリ様がおっしゃられている様に、この不軽菩薩の修行には、いくつもの側面があります。 まず、不軽菩薩自身については 1) 教義においての最高価値である、「全ての生命の尊厳」という目的を、礼拝という現実的な形の修行によって達成する。 一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、 穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ 崇峻天皇御書P1174 2) 過去における罪障(大聖人の仏法では諸悪の根源を「謗法」という1つに集約している。なぜなら、すべての、身、口、意、の悪業の根源は、 生命の真理に暗いところから 起きているとみるからです。)の消滅。 その自身の「謗法」の罪障消滅の方法は、生命の真理(全ての生命に仏性が内在している)に暗い民衆が持っている「謗法」の罪障に直接働きかけて 相手を救済することによって、却って自身の罪障消滅ともする。 不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに 過去の罪の滅するかとみへはんべり 転重軽受法門 P1000 そして、自分の考えに固執し、不軽菩薩を迫害した増上慢の比丘、比丘尼、また在家の男女の人々については 3) 真理を訴える事によって、その人達が自分を迫害するであろうことを見越した上で、敢えてそうさせる事で「逆縁」「毒鼓の縁」につけさせ、 最終的にその人々への救済の道を開いた。 謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成(な)さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し 教機時国抄 p438 とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり 法華初心成仏抄 p552 余談ですが、いくら相手が迫害することを見越していても、みすみす相手が投げつけた杖木瓦石にあたってケガをすればもちろん自分も痛いし、相手も もっと悪い宿業を積むので、不軽菩薩は、程よく離れたところまであとずさりして、更にそこから礼拝を続けたということです。 徹底していますね(笑) 以下、グリグリ様の講義の中から、私が言いたい事と重なる箇所をピックアップさせていただきました。いくつかの( )は分かりやすい様に言葉を追加しました。 >そもそも(釈迦仏法の)法華経における基本的な救済方法は〝逆縁〟ではなく〝順縁〟です。 つまり、相手の機根(能力)や志向性に応じて法を説き、迫害を招くことを極力回避するものです。 釈尊も多くの迫害に遭いましたが、その教化方法の基本は、相手の機根に応じてなされていました。 しかし不軽菩薩が実践した方法は、相手の機根や志向性を配慮せず、迫害を恐れず、 むしろ迫害を通して、相手に「仏縁を結ばせる」という逆縁の手法を用いたのです。 不軽品には「不軽菩薩は釈尊の過去世における姿である」と記されていますが、 やはり不軽菩薩の行動は、釈尊の化導法とは対極にあるものです。 これらのことから不軽品で説かれている仏道修行は、法華経全体の中では極めて異質なものといえます。「逆縁」の方法によって、 人々を最終的に救済していったのです。 むしろ迫害を通して、相手に「仏縁を結ばせる」という逆縁の手法を用いたのです。 不軽品に説かれているのは、迫害した者はその罪によって苦しみの「報い」を受けますが、 それを受け終われば、仏法に縁したことにより、最終的には救済されるという「逆縁」の救済原理が示されているのです。 その実践を貫き通した不軽菩薩の最大の特徴は「六根清浄と罪障消滅」という功徳です。 不軽品のなかで「不軽菩薩の罪が終わり(其罪畢巳)、命が終わろうとする時、 彼はこの経を聞いて六根清浄となった」と説かれています。 つまり、迫害を受けることによって、自身の罪障を滅することができたというのです。 そこで鳩摩羅汁は不軽自身の罪業と結びつけ、迫害の本質をより明確にしようと考えたのだと思います。 つまり、不軽菩薩が難(迫害)を受けたのは彼自身の過去世の(謗法)のゆえであり、(だからこそ、その逆をいく) 法華経弘通のゆえに難(迫害)を受けたことによって、自身の罪業を消滅させた――。 この鳩摩羅汁の解釈によって、初めて「難(迫害)による滅罪」という宗教的意義が明示されたのです。 大聖人はこの「逢難による罪障消滅」の原理を最重視しました。 事実、大聖人が佐渡流罪期にあって「日蓮の流罪(迫害)は自身の罪業のゆえ(佐渡御書)」であるとし、 この逢難によって罪障を滅することができると述べています。 日蓮仏法には自身の宿業を直視し、その業の転換や克服を説く思想がありますが、 その前提には不軽品に説かれる罪障消滅の思想があったのです。< 以上グリグリ様の講義より さて、本題に入ります。 これを書くかどうかについては、正直なところ、かなり迷いました。 しかし、少なくともみなさんが現状を把握されていれば、現在学会が抱えている問題の解決の道も探りやすくなると思い書かせてもらいました。 なお、当然私はこの分析は確かだと思ってはいますが、疑問を持たれる方も多数いらっしゃると思います。 全て自由ですので、もし批判などがありましたら、遠慮なく書いてもらっても結構です。 先に不軽菩薩の修行が、現在の執行部に悪用されていると書きましたが、それを理解するにはまず今の学会がどういう路線に進もうとしているかを 知る必要があります。 それはみなさんもすでに、うすうす感じていらっしゃる事と思いますが、次に書くことは、私が足掛け30年近く、変化していく組織を見ていて、 又日本の学会の副会長達初め、SGI本部のリーダー達や職員、更にこちらの相当数の幹部の方達や青年部、そして当然その他の多くのメンバーさんなどと 直接話していて分かってきた事です。 そしてこの私の結論に間違いがなければ、今の学会はこの様に物事を進めていると思っています。 ただし、選挙前など特別な時は、状況を引き戻したり、保留したりしている様子も伺えますが、、、。 まず世界宗教との名前が示す様に、学会は現実に世界宗教への道を模索しています。 その一環として、他宗教に寛容の態度を示すために、教義の普遍化をはかる必要があるという意向です。 これは正宗からの完全独立を図るため、学会教義の独自性を確立する意図もあります。 教義を普遍化する為には、できるだけ他宗との差異の部分には目を向けずに、共通部分を強調する必要があります。 宗教の差異の部分は、特に、「その宗派における最高価値(例えばキリスト教における創造主である神など)」や「生命の起源」「人生の意味」 「生命の最終の目的地(例えば、天国など)」などに表現される為、できるだけその様な科学的には証明のできない教義は避け、 現実の自己啓発的な部分だけの教えを以て普遍的教義として置き換えました。 「今」「ここ」主義であります。これは大聖人の教えの究極の部分である、「久遠元初」という法理に重なりますから、当然一部の真理であります。 問題は「諸法」も「時間線上の生命活動」も「過去、現在、未来の三世の生命観」もちろん「宿業論」も消えていくことになります。 そしてもう一つ、みんなに目を向けさせたい、ほとんどの宗教の共通部分。 簡単に仏法用語で言えば、「法」「報」「応」の内「法」の世界です。 この「法」が外道の「創造神」となるとキリスト教、一般的なイスラム教、一般的なヒンズー教の創造主の神である「人格神」になったり、 又は、ヒンズー教のウパニシャッド哲学や、戸田記念国際平和研究所の初代所長が信じていたイスラム神秘主義が信奉する「究極の原理」という 究極の実体になります。 言葉を変えていえば、九識論における八識以前を切り捨てた九識のみ、十界論で言えば九界までを切って仏界だけを真実とする、而二不二論の 而二を切って不二だけを真実とする、実相だけをとって諸法を切り捨てる、ご本尊の相貌でいえば、南無妙法蓮華経だけをとって、傍の十界をないがしろ にする、などなど、、です。 又、内道の仏法の中でも、小乗教の涅槃の境涯や、大乗でも真言や禅などもどちらかというと「法」だけに重きを置くものです。 更に極端に言うと、日蓮系でも「凡夫本仏論」を否定し、釈迦を人間を超越した存在として偶像化する思想も、一種の「法」のみの半端な思想です。 これらの思想には、現実そのものの生命の把握が完璧でない為、本当の意味で現状の改革や人間革命、宿業転換はできません。 「外典の外道・内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説きて候なり、然りといへども法華経の如く説かず、然れば経経に 勝劣あり人人にも聖賢分れて候ぞ」(蒙古使御書P1473) しかし、表面的にはたくさんの宗教をこの一点で統合できるかもしれないといううまみがあります。 問題は、この一見寛容に見える転換が、大聖人の仏法を妥協から今、又、更に謗法に貶めている事です。 それは当然5重の相対などを以て、宗教の高低浅深を見極めるという態度とは正反対の立場です。 つまり、このやり方では、基本的には、他宗を批判することはしません。(正宗だけは別ですが、、) それどころか、外道の宗教の人や日蓮宗などにも、何の宗教間の対話もなく無防備に受け入れています。佐藤優などがいい例でしょう。 (注;釈迦の八万宝蔵の教えも外道も真理の一部として説くのはいいが、完璧な真理として取ると、謗法になる) こういう態度はおよそ慈悲からくる折伏精神とは程遠いものといえると思います。 私は、現在の学会の立ち位置は、いずれ、この様な方向にもっていくための、いわばまだ試験段階であると思っています。 釈迦仏法への変更といっても、まだその過程でしょう。 しかし、それを今、会員に公表するわけにはいかないので、その事によって内部破綻が起こらないよう、早くから、組織信仰「創価学会仏」という言葉を利用して、 教義への信仰の視点を組織への信仰に置き換え、そして、それを盤石に成功させる為、先生の名前が偶像的に利用してきたと思っています。 その結果、組織信仰に焦点を移行した会員達は、例えじょじょに教義が変わっていっても、その時々の組織の決定とその時の会長の統率に何の違和感も 持たないような精神回路が出来上がっていったということです。 ここまで書けばお分かりだと思いますが、つまり、上記の不軽菩薩の修行の3つの観点の内、2)と3)はもう今の学会では異質ということです。 生命が永遠であることを信じる事を前提にしてしか話し得ない「過去の罪業」「罪障消滅の宿業の転換」「順縁」「逆縁」ましては「毒鼓の縁」などの教理は、 もう無くなってしまったか又は学ぶ機会は与えられません。 特に3)の相手からの迫害を呼び起こす行為は「逆縁」や「毒鼓の縁」として、相手の救済の方法としての意義はもちろん認められません。 それどころか、相手の信仰を否定する悪の行為だということになります。 又この様な思想の排除は、更にメンバーが組織の執行部が教義を変えていくときの批判の声を妨げるのにも役立つ事になります。 これでは大聖人の仏法の「罪障消滅による宿業の転換」という奥義は捨て去られた事になります。 これと対照的に組織では、1)の 「不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞である」という部分だけを切り取って指導します。 ここに2つほど彼ら流に曲解されてしまったメッセージがあります。 一つは、人を敬う、良い振る舞いをせよ=組織、幹部、他宗、批判(建設的な意見も含む)をするな 2つ目は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞」=「大聖人の出世の本懐も人の振舞」=御本尊御図顕ではなく迫害に絶え、本物の信者を輩出させ得たこと。 としています。 しかし、あきらかに大聖人の出世の本懐は事の一念三千の御本尊御図顕です。 御書にはこうあります。 経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、 子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。 阿仏房御書 P1304 不軽菩薩は一見すれば、摂受の手本の様にも見えます。 しかし、迫害を覚悟で、謗法のものに真実を訴えたのは慈悲を根本とした「折伏精神」であるのはまちがいないのです。 御書に 夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智・悪人の国土に充満の時は 摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし 開目抄 p235 とあります。 私達は、基本的には誰でも過去世に一念三千の法理を迫害したり、それでなくとも与同罪を犯したり、又一四誹謗の一つである「懈怠」に深く陥って前進がないなどの 「謗法」を犯しています。現在のいろいろな不幸の究極の原因をつきつめていけば、生命哲理に暗い無明に覆われた生命活動の結果が起こした悪業ということになります。 そしてその宿業転換をすることの最短の道がまさに謗法を犯している目の前の人を破折し救うことなのです。 ですから、その為に声をあげ迫害されても、それこそその時が宿命転換の時なのです。 それが、折伏行の手本である不軽菩薩の信心修業です。 それを黙っていろなどという人達は他人の、仏界への道、宿業転換の修行を妨げており、これはすごく深い謗法となります。 長くなりましたが、私が長い間、執行部の皆さまにお願いしていたことは、組織の責任を担っている執行部は、正しい「信心」をみんなに貫き通させる責任があるということです。 組織の方向性を変えるなら、やはり、会員の皆さまには本当の事を明かし、そしてみんなで足りない部分を補い合っていけば本当にすばらしい創価ができあがるということを 確信してほしいと思っています。 命限り有り惜しむべからず遂に願ふべきは仏国なり 富木入道殿御返事 P955-6 大聖人様と同じ心に立つことこそ、今この地球を救う道は残されていないと、特に現在の社会の動向を見ていて、この頃は深く思っています。 Tweet