2016年7月27日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月27日(水)08時46分59秒 通報 では次に「遺伝」という角度から見ていきましょう。 〝親の因果が子に報い〟という言葉がありますが、 親から子や孫に体の形や性質が伝わる現象を遺伝といいます。 血液型や体質が親から子に伝わる現象などもそうです。 生物学などは遺伝を体形、体質、性質などに関わる伝播を問題にして論じているのに対して、 仏法ではそこからさらに一歩深い性質や思想などの いわゆる〝生命の傾向性〟にまで踏み込んで論じています。 また親子に限らず、兄弟、夫婦、さらには社会、世界という単位でも 一つの傾向性をもった生命が集まるという広げた概念を説いて、 それを「眷属」と呼びました。 遺伝と眷属の考え方の違いは、根本的には遺伝がその〝仕組み、仕方〟を述べているのに対して、 眷属はその〝因果〟を明らかにしているところです。 つまり、親から遺伝を受けた〝仕組み〟が明らかになっても、 その遺伝を〝なぜ〟受けなければならないのかは遺伝学では解明していません。 つまり「なぜ自分が病気に・・・・」という悩みは、遺伝学では解決しないのです。 たとえば、色盲で生まれたのは、その生命の過去の原因によって、 色盲という結果をもって生まれたのでありこれを〝宿命〟といいます。 その現れ方は「色盲になる遺伝子をもった親のところへ生まれてくる」という形になるのです。 色盲という病気が宿命であるならば、その宿命をどのように転換していくのか ということになれば、これはもう遺伝学の分野ではなく、仏法の領域です。 そしてそれを完璧に解き明かしているのが、大聖人の仏法(大生命哲学)なのです。 ・・・つづく (たぶん夕方) Tweet