2016年7月25日 投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月25日(月)18時27分26秒 通報 全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。 2006-9-22 【全国最高協議会】 ●戦争と権力に反対する精神 一、以前にも、申し上げたことがあったと思うが、終戦のとき、私は17歳であった。 長兄はビルマの戦線で戦死し、次兄は中国で戦線に参加。3番目の兄も同じく中国で戦わされた。4番目の兄も、中国戦線に参加した。 昭和20年8月15日、日本は終戦を迎えた。 日本にいた兵隊さんが、たくさんの荷物を背負って、それぞれの自宅に戻っていった姿を、今でも覚えている。 しかし、わが家の3人の兄が中国から帰ったのは、戦後1、2年経ってからだった。皆、命からがら、わびしそうに帰ってきた。 わりあい立派だったわが家も、戦争中、強制疎開させられた。 東京・蒲田の糀谷(こうじや)から移って、馬込(まごめ)の親戚の側に作らせてもらった家も、空襲で全焼した。 父親がリウマチを患うなか、母親は、精いっぱい、一家を守ってくれた。 長男から4男まで戦争に取られ、5男の私は肺病であった。わが家は戦争に翻弄された。 あまりにも不平等であり、あまりにも理不尽な現実があった。 ゆえに、私は絶対に戦争に反対である。 戦争と権力に対して、反対する精神を、その時に持った。 これが、私が戸田先生のもと、立ち上がった大きな原点である。 私は、一生涯、庶民の味方である。 ●幹部は威張るな 人間革命せよ! 一、戸田先生は、厳しく言われていた。 ── 幹部がだんだんと年を取り、戦う心を失い、自分中心になってしまうならば、新鮮な息吹がなくなってくる。それでは学会の組織は、絶対に弱体化する、と。 だからこそ、幹部自らが、常に新鮮な息吹に満ちて、生き生きと若々しく、向上していくことだ。 その一切の原動力が、師弟の求道である。 「会員が、あの幹部を見ると、心から安心して信心に励めるといった幹部であってほしい」 これも、戸田先生のご指導であった。そのための「人間革命」に挑戦していきたい。 リーダーは、決して威張ってはいけない。傲慢になってはいけない。 幹部に威張る資格などない。本当に偉いのは会員である。実際に折伏をし、広布を推進してくださっている会員の皆さまである。その方々に、幹部は最敬礼していかねばならない。 凡夫こそ仏。民衆こそ偉大。そう見ていくのが日蓮大聖人の仏法の精神だ。 まず最高幹部が、率先して模範を示していかねばならない。 気取りなど捨て、いい格好を見せようなどと思わずに、一人一人の会員を心から大切にし、誠心誠意、尽くしていくのだ。 「ありがとう」という言葉もない。言ったとしても、口先だけで心がこもっていない。そんなリーダーのもとでは、皆があまりにかわいそうである。 広宣流布に戦ってくださる尊き同志に、真心を込めて、「ありがとう」と感謝していく。「よく来たね」「大変だったですね」と、ほっとするような温かい言葉をかけていく。 皆から愛され、慕われる広布のリーダーとして生き抜いてほしい。その根幹は、師弟の精神である。 ●学歴本位では行き詰まる 一、戸田先生は、厳然と言われた。 「地位や学歴で、人間の偉さが決まるのではない。 日蓮大聖人の弟子として『広宣流布に働く人』こそ『一番、偉い人』である。その人を一番、大事にするのだ」 永遠に銘記すべきご指導である。 さらに先生は、こう戒めていた。, 「精神性を重要視する宗教界や思想界が学歴本位になっていけば、その団体は必ず分裂し、行き詰まり、崩壊するであろう」 なかんずく、「平等大慧(びょうどうだいえ)」の仏法において、本来、学歴などはまったく関係ない。 当然、学問は必要である。いつまでも学ぶ心を失ってはならない。 しかし、学問と学歴は違う。創価学会は、学歴主義に絶対毒されてはならない和合の世界である。 この根本の一点を、きょうは、将来のために、あらためて確認しておきたい。 ●仏法の世界の根幹は「信心」 一、仏法の真髄は「心こそ大切なれ」(御書1192ページ)である。信心は「心」の世界である。 「信心の厚薄によるべきなり」(同1244ページ)と仰せのごとく、信心の「心」が、厚いか、薄いか。深いか、浅いか。強いか、弱いか。それが一切の根幹である。 「学歴」や「肩書」などで左右されるものでは断じてない。 むしろ、高い学歴ゆえに増上慢を起こせば、信心を狂わし、和合僧を濁らせてしまう。 御本仏であられる日蓮大聖人の御在世にあってさえも、そうした例が見られた。歴史の重大な教訓である。 あの三位房も、その一人であった。 三位房は、早くから大聖人の門下となり、その才知や弁舌によって頭角を現していった。 彼は、京、比叡山に遊学した。 当時の比叡山は、いわば「最高峰の仏教大学・総合大学」ともいうべき存在であった。それゆえに、比叡山で学んだということは、今でいえば最高の学歴を得たことに通じるともいってよい。 しかも、京は華やかな貴族の都である。三位房は、この遊学で、世俗的な権威に目がくらみ、すっかり心を乱してしまった。 京に上った彼は、ある公家(くげ)に招かれて、その持仏堂で説法をした。 その様子を彼は、師匠である大聖人に対して、得意げに報告したのである。 大聖人は、三位房の虚栄と慢心を、次のように烈々と叱責なされた。 ── おまえは、社会的な地位や名誉を超越(ちょうえつ)したはずの仏法者ではないか。そのうえ、この仏法は世界第一の尊き仏法である。 それを思えば、(仏と等しい悟りを得た位の)等覚(とうかく)の菩薩でさえ、どうということはない。 まして、仏の家来である梵天・帝釈等は、我らを守る立場である。四天王は、その梵天・帝釈等の門番である。 (その四天王のうち)毘沙門天王の家来が、四大州の王たちである。 いわんや、日本の権力者など、その王たちの家来にも及ばない。ただの「島の長」ではないか。 その長に仕える者たちに「呼んでいただいた」などとは、なにごとか! 「面目をほどこした」とは、いったい、どういうつもりか。 おまえは、日蓮を卑しんでこのようなことを書いたのか ── と(御書1268ページ、趣意)。 最高無上の仏法を行ずる、日蓮門下の誇りと自覚を失った心を、師が見逃されるわけがない。 根本の信心を、師弟の精神を、断じて忘れるな! ── 大聖人は、弟子を思うがゆえに、それはそれは厳しい叱咤を続けられた。、 「総じて日蓮の弟子は京に上ると、初めのうちは(初心を)忘れないようであるが、後になると天魔がついて正気を失ってしまう。少輔房(しょうぼう)のようなものである。 三位房、あなたもそのような姿になって諸天に憎まれないようになさい」(同ページ、通解) 三位房は、京に上った後、名前を、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の名前である「尊成」と変えた。そして、その名を大聖人に対する報告のなかに、得々と書き記していた。 大聖人は、厳しく仰せである。 「京に上って、いくらも経ってないのに、実名を変えたということであるが、狂っている。きっと言葉つきや発音なども、京(みやこ)なまりになったことであろう。 ねずみがこうもりになったように、鳥でもなくねずみでもなく、田舎法師でもなく京法師にも似ていず、少輔房のようになってしまったと思われる」(同ページ、通解) 貴族ぶって、自分の名前や経歴を飾り立てようとする。なんと浅ましい心であろうか。 ●妙法の実践者が人生の勝利者に 一、御聖訓には仰せである。 「須梨槃特(すりはんどく)は、三年かかっても十四文字を暗唱できなかったけれども、仏になった。 提婆達多(だいばだった)は、六万蔵(ろくまんぞう)という膨大な経典を暗記したけれども、無間地獄(むけんじごく)に堕ちた。 このことは、ひとえに末法の今の世のことを表しているのである。 決して他人のことと思ってはならない」(同1472ページ、通解) どんなに学歴、学識があっても、信心がなければ成仏は絶対にできない。 最高学府を出ても、また最高位の勲位(くんい)を手にしても、仏法の正道(せいどう)に背き、人間の知恩・報恩の道を踏み外してしまえば、最低・最下位の生命の無間地獄に転落してしまうのだ。 これが、厳しき因果の生命の理法である。 学歴がなかろうが、無名無冠(むめいむかん)であろうが、まっすぐに信心を実践し抜く人こそが、大勝利者の境涯となり、悠然と成仏できるのである。 ●「へつらうことは法を下げる」 一、創価学会の「創立の父」であられる牧口先生は厳然と言われていた。 「名門の人や高位・高官だからといって、へつらうのも法を下げる」 これが、創価の先師の誇りであられた。 さらに牧口先生は、「上流に立つ指導階級の流す無意識の害毒が、いかに重大であるか」とも戒めておられた。 上に立つ幹部が見栄っ張りになり、学歴などを鼻にかけて増上慢になってしまえは、清浄無比な創価学会の世界に毒を流してしまう。 大聖人の御心に適った学会精神を、永遠に明々(あかあか)と燃え上がらせていかねばならない。 そこに、広宣流布の流れがあるのだ。 ●だれが学会を築いたのか? 一、また戸田先生は、威張る幹部は絶対に許されなかった。 「見栄を張ったりする人間が、学会の幹部になっては、絶対に困る」 「腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、学歴があるからといって尊大ぶる愚劣な幹部もいる。 また、皆の支援によって名誉ある議員にさせてもらいながら、信心を失い、退転して、恩知らずな行動をとっていく愚者や卑怯者も出るだろう。こいつらを断じて許してはならない」と、厳しく言い残された。 ともあれ、今日の創価学会を築き上げたのは、三代の会長とともに立ち上がった、無冠の庶民たちである。 学びたくても、満足に学校に行けなかった。夜学に行った。貧しさと戦い抜いた。仕事も地道である。そういう皆さまこそが尊いのだ。英雄である。そういう方々が学会をつくってくださった。 大学に行けなくとも、また夜学であっても、無名の学校であろうと、一切、信心には関係ない。そこに、微塵たりとも差別を許してはならない。 そうでなければ、一番、真面目な同志がかわいそうである。 権力を持った議員や、肩書のある人間、学歴を持った人間が威張るようになったら、公平さが失われる。学歴とか勲章とかで威張ったり、威張らせたりするようなことがあっては、絶対にならない。 それは、仏法とは、まったく異質の世界になり下がってしまうからだ。 ●「三代」に流れる学会精神を守れ 一、為政者は、民衆によって支えられている。 ゆえに、民衆を心から尊敬し、民衆の幸福のために尽くすのが当然である。 にもかかわらず、“自分が一番偉い”と勘違いして、民衆を見下し、犠牲にする。これが「権力の魔性」である。 この権力の横暴を断じて放置してはならない。戦わなくてはいけない。「民衆が主役」の時代を切り開いていくのだそれが学会の三代の会長の決心であり、実践であった。 牧口先生のことを語るときの戸田先生の姿は、それはそれは峻厳であられた。とくに牧口先生の獄死に話が及ぶと、目に涙を浮かべ、憤怒(ふんぬ)に震えながら、「権力の魔性」との闘争を誓われた。 そのようにして、戸田先生は、真実の学会精神とは何かを教えてくださった。崇高な「仏法の師弟」の模範を示してくださったのである。 私も今、戸田先生のご精神を、そして、ご指導のすべてを後世に伝え残している。それが弟子である私の責務であるからだ。 偉大な人間とは、偉大な伝統をつくり、示していく人である。 三代の会長に流れる「学会精神」を守り抜いていくかぎり、創価学会は永遠に発展する。それをきょうは明確に言い残しておきたい(大拍手)。 ●大哲理を学ぶ世界唯一の殿堂 一、「学歴」は、信心とは関係ない。 しかし、「学問」は大事だ。「一切の法は皆是れ仏法」であるからだ。 わが愛する、優秀な学生部員たちが、多くの大学で真剣に学んでいる。また、海外に留学し、世界に雄飛する青年たちのために、私は全力で道を開いてきた。 学べ! 学べ! 大いに学べ! 徹して学べ! 大いなる理想のために学ぶのだ。信心を根本に、学ぶことである。 学生部が結成されたとき、戸田先生が、どれほど喜ばれたことか。 先生は言われた。 「学生部は、校舎なきユニバーシティーだ。 世間の大学は、学問を詰め込むが、ここでは、人間の中身を詰め込んでくれる」 さらに先生は、「一念三千の大哲理」は創価学会の中でしか学べない。世界で唯一の人間学の殿堂であると断言された。 一、本当に偉大な先生であった。 そして、厳しい先生であった。 地位や権威を鼻にかける人間には、ことのほか厳しかった。 傲慢な人間に対する先生の怒りは、それこそ、雷が落ちるような激しさであった。 大難のなか、私は必死の思いでお仕えした。あまりの厳しさに、逃げ出す者もいた。先生は「去りたい者は去れ! 」と一喝されていた。 だれよりも庶民を愛したがゆえに、だれよりも庶民の敵を許さない ── そういう先生だった。 ともあれ、民衆を馬鹿にし、私利私欲に走る人間とは、断固と戦うことである。邪悪を追及し抜くことである。 悪と徹底的に戦うことが「善」である。 反対に、悪と戦わない。見て見ぬふりをする。これでは、厳しく言えば「同罪」になってしまう。 いくら表面は人が良さそうに見えても、内実は、善の勢力を破壊する悪の存在になってしまう。 ■ 私たちは、にぎやかに、そして高らかに、学会歌を歌いながら、生き生きと前進してまいりたい。 各方面に戻られたら、わが敬愛する同志の皆さまに、くれぐれも、よろしくお伝えください。 きょうは本当にありがとう! また、お会いしましょう! 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