2016年7月25日 投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月25日(月)02時43分40秒 通報 全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。 2006-9-17 【名誉会長「霊鷲山」と「彼岸」を語る】 ●世界の識者との対談集は「50」に 一、先日、アメリカ・ソロー協会の知性との語らいをまとめた『美しき生命 地球と生きる』が発刊された(毎日新聞社刊)。 世界の識者との42点目の対談集である。 さらに現在、複数の対談を継続している。そして、この秋、「東洋学術研究」誌上で連載開始となるアルゼンチンの人権活動家エスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)との対談をもって、50点の対談が世に出ることになる(大拍手)。 世界の識者との対談の実質的なスタートは、約35年前のイギリスのトインビー博士との語らいが最初であった。 「人類の直面する基本的な諸問題について語り合いたい」 ── このように博士のほうから対談を希望されたのである。 語らいは、文明の未来、生命論、環境論、女性論、国際情勢、教育と宗教など多岐にわたった。 2年越し、40時間に及んだ対談が終わった時、私は、「トインビー先生の生徒として、何点ぐらいとれたでしょうか」とうかがった。 トインビー博士は、にっこりとして言われた。 「私は、ミスター・イケダに最優等の『A』を差し上げます」と。 私のすべては、「戸田大学」で、約10年間、毎日のように訓練していただいたおかげである。 戸田先生は、私のいないところで、このようにも語っておられたようである。 「戸田門下生で、大作にかなう者はいない。どこに出しても恥ずかしくない。 どんな指導者と議論しても、どんな学者と議論しても、負けない男をつくっておいたよ」と。ありがたい先生であった。 これまで、私は、多くの識者と語り合ってきたが、洋の東西を問わず、一流の人物の結論は、「師弟しかない」であった。 師弟のあるところに、本当の人生があり、真実の永遠性があり、究極の勝利がある。 ●正しい人生を 勇気の人生を 一、創価学会の根本の精神は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のために、命をかけて戦い抜かれた牧口先生と戸田先生の師弟の精神である。 この師弟に流れ通う広宣流布への「不惜身命」の心がなくなったならば、今は、いかに発展しているように見えても、学会の前途は危うい。 仏法は、仏と魔との連続闘争である。決して甘いものではない。’ 牧口先生、戸田先生のご精神を、今こそ、守り抜いていく時である。最高幹部は、命あるかぎり、求道心を燃やさなければならない。それが本当の学会精神である。 私は、戸田先生のために命を捨てようと決めていた。 それを先生は察知され、「俺の体をなげうってでも、大作を守る」と言われたのだ。 そして、先生から受け継いだ創価学会の発展のために私は、今日まで、動きに動き、祈りに祈り、書きに書いて、骨を粉にして働いてきた。 本当の清らかな、本当の師弟に徹した信心を、私も妻も貫き通してきた。 全世界に道を開いた。 全世界に恩師の平和の精神を宣揚した。 恩師の敵を討った。私は、戸田先生のただ一人の真正の弟子である。 先生は遺言するように語られた。 「私は何百人、何千人もの弟子を見てきたが、本当に誠実に私を支えてくれ、創価学会に尽くしてくれたのは大作が一番である」 皆さんには、いい人生を生きていただきたい。正しい人生を生きていただきたい。勇気ある人生を生きていただきたい。 その根本の道が「師弟の道」である。 私も、さらに本腰を入れて、本当の学会精神を語り残しておきたいと決意している(大拍手)。 ■ 「彼岸」が日本人の生活のリズムに、深く浸透している一つの証左といってよい。 たしかに「彼岸」は、春夏秋冬の四季の変化に富む日本において、大宇宙の運行のリズムに則った、絶妙な節目となっている。 創価学会にとっては、春の彼岸は5・3「創価学会の日」への新生のスタートであり、秋の彼岸は11・18「創価学会創立記念日」への勇躍のスタートといってよい。 一、また彼岸に当たり、逝去なされた全功労者、そして全同志・全会友の先祖代々の諸精霊の追善回向を、来る年も、来る年も、私は懇(ねんご)ろに行わせていただいている。 本日も、皆さま方のご尊家の追善回向を、私は学会本部の師弟会館に御安置されている常住御本尊に真剣にご祈念させていただいた。 さらに北は北海道・厚田から、南は沖縄まで、全国各地の「生命の永遠の都」たる学会の墓園は、墓参に訪れるご家族でにぎわいを見せる。 美しい秋の自然のなかで、浩然の気(こうぜんのき)を養いながら、深い思い出を刻んでいただきたいと願っている。 関係の役員の方々には、お世話になります。絶対無事故の運営を、何とぞよろしくお願いします(大拍手)。 ●妙法の受持こそ「彼岸に到る」道 一、「彼岸会(ひがんえ)」の意義については、これまでも論じてきたが、仏法における「彼岸」の本義を、重ねて簡潔に確認しておきたい。 「彼岸」とは「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸(しがん)」との対比で用いられる。 「此岸」は、生死の苦しみ、煩悩の迷いの世界を、「彼岸」は、解脱・涅槃・成仏の悟りの境涯を譬えたものである。 また「彼岸」は、成仏の境涯とともに、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいる。 すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。 大乗仏教では、「成仏の境涯(彼岸)」に到るための修行に、「布施」「持戒」「忍辱(にんにく)」「精進」「禅定(ぜんじょう)」「智慧」の六つの行を立て、これを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼んでいる。 「波羅蜜」とは、梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳だが、これを意訳すると「到彼岸」となる。 「受持即観心」の日蓮仏法に巡りあえた私たちは、妙法を「受持」、すなわち心から信じ、自行化他の実践を貫くことによって、この.「六波羅蜜」の一つ一つを果てしなく修行する歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)を経なくとも、同じ功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成仏の境涯に到達することができるのである。 これが、大聖人の偉大なる仏法の「仏力」「法力」である。そして、その力を尽きることなく引き出すのは、ひとえに、私たちの「信力」「行力」である。 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で、その法理を明快に教えてくださっている。 広宣流布への行学に徹するところ、厳然たる人間革命の実証として、「六波羅蜜」つまり「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という、菩薩に不可欠な徳性が、私たちの生命に自然のうちに光り輝いていくとの御約束である。 言いかえるならば、人格の深まりがないならば、真に仏法を行じているとはいえないであろう。 その点、本日、お集まりの功労者の方々は、社会においても、皆、第一級の模範の指導者であられる。 「信心即生活」「仏法即社会」の立派な勝利の現証が、私は何よりもうれしい。 ●日蓮仏法は毎日が彼岸 一、ともあれ、本来、仏法における「彼岸」の本義は、どこまでも「成仏の境涯」、また「成仏に到る実践」にある。 先祖供養とは関係がなかったといってよい。大聖人の御書でも、「彼岸」という言葉を、先祖供養の意義で用いられている個所は、一つもないからだ。 そもそも、春・秋の「彼岸会」は、仏教本来の伝統ではない。あくまでも、日本独特の風習である。その定着には、浄土教の影響が強かったと推察されている。 つまり、春分・秋分の日は、太陽が真西に沈む。その夕日を見ながら西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を思う観想法(かんそうほう)が、浄土教の中で行われていた。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結びつき、「彼岸会」として定着していったという説がある。 とくに、彼岸に合わせて墓参りする習慣などは、江戸時代のいわゆる葬式仏教のもとで根付いたものと考えられている。 日蓮仏法では、「常彼岸(じょうひがん)」、すなわち毎日の勤行・唱題が、そのまま彼岸会の実践である。自らが日々、妙法を行じゆく功徳を、先祖や故人に「廻)めぐら)(回)し向ける」のが、真の回向であり追善であると説いているのだ。 そのうえで、春、秋の彼岸を一つの機会として、故人への感謝を込め、追善を行うことも、「随方毘尼(ずいほうびに)」の法理の上から、当然、意義のあることといってよいだろう。〈「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、各地域や時代の風習に随うべきであるとする考え〉 善き同志とともに会館や墓地公園などに集い、清々(すがすが)しく勤行・唱題し、故人の志を継いで広宣流布に進む決意を深めゆくことは、大聖人の御心に最も適った追善であることを確認しておきたいのだ。 そこに、坊主が介在する必要など、元来、まったくないのである。 ●僧による法要は葬式仏教の産物 一、「僧は葬送儀礼には関わらない」というのが、釈尊の遺言であり、仏教の伝統であった。 僧は、葬儀などの儀式に関わらないで、あくまでも自身の修行に専念し、自己完成を目指すべき立場であった。 ところが日本では、室町時代を経て、檀家制度が確立される江戸時代になると、いわゆる「葬式仏教」へと堕していった。 寺院は、仏教本来の出家の精神を失い、経済的な支えを葬送儀式に見いだし、巧妙に利用していくようになっていったのである。 さまざまな法要も、仏教の本義に由来するものではなく、他の宗教や思想を取り入れたものであることが、歴史研究で明らかにされている。 例えば、なじみの深い「四十九日の法要」も遡(さかのぼ)れば、インドのバラモン教に由来するという。 百箇日・一周忌・三回忌の法要は、中国の儒教を淵源として、平安時代までには日本でも行われるようになった。 さらに時代を経て、法要が寺院にとって重要な財源となるにつれ、七、十三、十七、二十五、五十、六十回忌等々と、次々と回忌法要がつくり出されていったのである。 大聖人の御在世には既に、四十九日をはじめ、回忌法要の風習は広く社会に浸透していた。 大聖人の門下も、亡くなった家族の四十九日や回忌法要に際し、供養をお届けしてきたという記録がある。 大聖人は、その孝養の真心を讃えられながら、御自身も追善供養してくださっている。 しかし、大聖人が、そうした法要を積極的に行うよう奨励されることはなかった。 先ほども申し上げたように、「彼岸会」に関する記述も、御書には全くないのである。 日蓮仏法には、儀式や形式に縛られる窮屈(きゅうくつ)さや偏狭(へんきょう)さはない。 心を広々とさせ、伸び伸びと大宇宙の運行のリズムに合致しながら、意義深き人生の四季を飾り、福徳の生命の年輪を刻みゆく正道が示されているのである。 「彼岸」においても、大事なポイントは、一体、何か。 仏法の本義に立ち返るならば、「成仏の境涯(彼岸)」へ向かって、自分自身も、そして一家眷属(けんぞく)も、より希望に燃えて前進していくことこそが、眼目(がんもく)なのである。 ●「形骸のみあって真の仏法はない」 一、戸田先生は、彼岸に関連して、正しい仏法のあり方を、さまざまに語り残してくださっている。 そのまま、ご紹介させていただきたい。 「彼岸といいお盆といい寺に詣でる者多く、あたかも日本は仏教隆盛の国のようにみえる。 しかるにその真実は仏法の形骸のみあって真の仏法はない」 そして先生は、日々の学会活動にこそ、「彼岸に到る」道があると教えられた。日々の倦(う)まぬ実践の積み重ねだけが、自身を幸福の彼岸に運んでくれることを強調しておられた。 『全同志を、幸福の彼岸へと導きたい! 』 ── これが、戸田先生の叫びであった。また、創価の三代の心である。 反対に、「葬式仏教」や腐敗堕落の坊主に対して、先生は、烈々たる舌鋒(ぜっぽう)であられた。 ●「私腹を肥やす坊主は天魔だ」 一、また、戸田先生は、信心なき宗門の坊主に対しても容赦なかった。 こう厳しく言い切っておられた。 「坊主は、人々を救うためにある存在だ。 それを、御供養といって、信者を金儲けの道具にし、何の贅沢に使ったのか。何の遊戯雑談(ゆげぞうだん)に使ったのか。仏法の本義から根本的に誤った、腐った精神の奴らである。あまりにも情けない奴だ」 「多年(たねん)、寺を私有化し、いたずらに私腹のみを肥やして、貪欲(どんよく)の醜躯(しゅうく)を法衣(ほうえ)で偽装。僧形(そうぎょう)にして僧に非ず。天魔なるのみ」 さらに、堕落した宗門の坊主の本質について、遺言のごとく語っておられた言葉が忘れられない。 「なぜ、僧侶の堕落が始まり、腐敗していくのか。それは、広宣流布という至上の目的に生きることを忘れているからだ。この一点が狂えば、すべてが狂ってしまう。 令法久住(りょうぼうくじゅう)を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。つまり欲望の虜(とりこ)となり、畜生の心に堕してしまっているのだ」 先生は、こうも予見しておられた。 「禿人(とくにん)といって、職業僧侶、すなわち生きんがため食わんがためのみの僧侶が世に充満して、少しも僧侶として世人を救う力のない時代に、国のため、世のため、法のために、不惜身命のものが現れたときには、その僧侶等は、徒党をつくって迫害するであろう」 「学会が大発展していけば、必ず坊主たちは嫉妬し、思いもよらぬ迫害を加えてくる」 そして「広宣流布の大闘争に、少しなりとも邪魔だてする坊主あれば、青年は決起して鉄槌(てっつい)を加えよ」と訴えられた。 衣(ころも)の権威で尊き仏子をいじめ、広宣流布を阻(はば)む悪人は絶対に許すな! ── これが恩師の叫びであった。 ●師弟の行学錬磨の場 「霊鷲山」 一、きょうは学会の会館の建設・整備などのために尽力されている方々も、参加しておられる。 広宣流布の同志が集う法城が、どれほど大切な場所であるか。 日蓮大聖人は、大きな仏道修行の道場を建立(こんりゅう)するのに貢献した富木常忍(ときじょうにん)をねぎらわれて、こう仰せである。 「一閻浮提(いちえんぶだい)第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい」(御書995ページ、通解) 皆さま方の功労を、私は永遠に顕彰してまいりたい(大拍手)。 一、大聖人は、「霊山浄土」について、多くの御書の中で言及しておられる。 「霊山」つまり「霊鷲山」は、釈尊の出世の本懐である法華経が説かれた場所とされる。 釈尊在世の時代、インドで最大の強国であったマガダ国の首都として栄えていたのは、王舎城(現在のラージギル)である。 この王舎城は、五つの山に囲まれた天然の要塞(ようさい)ともいえる都市であった。 その五山のうち、東北に位置する山が霊鷲山である。 頂上には、鷲を思わせる岩が屹立(きつりつ)している。それゆえか、「鷲の峰」(グリドゥラクータ)という意味の名があり、中国や日本では漢訳されて「霊鷲山」、あるいは音を写して「耆闍崛山(ぎしゃくっせん)」とも言われてきた。 「霊」の字には「神聖な場所」の意が込められており、単に「霊山(りょうぜん)」とも呼ばれた。 釈尊は、この霊鷲山で真実の大法を説き残した。 弟子たちは、師のもとで懸命に修行し、師を厳護しながら、師の教えを生命に刻んでいった。 つまり、霊鷲山は、“師弟共戦の行学練磨の場”であり、“師弟不二の広宣流布の舞台”だったのである。 ● その霊鷲山で、壮大な、大宇宙も包含しゆく法華経の会座(えざ=虚空会)が繰り広げられたことに、大聖人は甚深(じんじん)の意義を見いだされている。 そして、「娑婆即寂光」という仏法の真髄の原理を展開されていくのである。 「娑婆(しゃば)」とは、堪忍(かんにん)世界と言われるように、生きていくために堪え忍ばねばならない苦難多き現実世界をいう。 また「寂光」とは、常寂光土のことで、仏が住む荘厳にして清らかな平和な浄土である。 霊鷲山は、まさしく、生老病死の苦に満ちた娑婆世界を象徴している。 その霊鷲山と離れずに、その霊鷲山の中で、「法華経の会座」という寂光土が現出しているのである。 すなわち、真の仏法とは、現実から離れず、現実の真っただ中で、人々の苦悩と真っ向から向き合いながら、その打開の道を説き示すものであった。 そして、苦難に満ちた現実世界を、希望の宝土(ほうど)に転換しゆくのである。 私には、この「娑婆即寂光」の法理が、「霊鷲山」「霊山浄土」という仰せに凝結していると拝することができた。 ●仏法の真髄は「今、ここ」に 一、御書には、こうも記されている。 「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり」(811ページ) 「惣(そう)じて一乗(いちじょう)南無妙法蓮華経を修行せん所は・いかなる所なりとも常寂光の都・霊鷲山なるべし」(同ページ) 「霊山浄土」とは、西方極楽浄土のように、死んだ後に娑婆世界を離れて往生する別世界では、決してない。阿弥陀仏のような他力(たりき)にすがって往生する所ではない。 御義口伝には、「法華経を持(たも)ち奉る処を当詣(とうけい)道場と云うなり此(ここ)を去って彼(かしこ)に行くには非ざるなり」(御書781ページ)と仰せである。 現実を離れ去って、どこか他の世界に幸福や安穏を求めるのではないのだ。 大聖人は、次のようにも仰せである。佐渡流罪の大難の中で認(したた)められた御言葉である。 「私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都となるであろう。 私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺(てんじく=インド)の霊鷲山を見、本有の(ほんぬ=永遠の昔から存在する)寂光土へ昼夜に往復されるのである」(同1343ページ、通解) 要するに、大聖人に連(つら)なり、広宣流布の魂を燃やして、妙法を実践する人がいる所こそが、常寂光の浄土なのである。 仏法の真髄は、どこか遠くにあるのではない。今、ここに厳然とある。今、ここを離れて、仏法はない。 ●霊山浄土は宇宙の全体 一、大聖人は、御書の随所で、「法華経を修行し抜いた人は、亡くなってから霊山浄土に行くことができる」と示されている。 たとえば、「如説修行抄(にょせつしゅぎょうしょう)」には次のように仰せである。 「命が続いている限りは、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と題目を唱えに唱え抜いて死ぬならば、釈迦・多宝・十方の諸仏は、霊山会でお約束されたことなので、たちまちのうちに飛んできて手を取り肩に担(かつ)いで霊山へと走ってくださるのである。 その時は、二聖(にしょう=薬王普薩と勇施〔ゆぜ〕菩薩)、二天(にてん=持国天王と毘沙門天王)、十羅刹女は法華経を受持した者を助け護り、諸天善神は天蓋(てんがい)をさしかけて旛(はた)を立て、私たちを守護して、功徳に満ちた永遠の仏国土へと必ず送ってくださるのである。なんとうれしいことか、なんとうれしいことか」(同505ページ、通解) さらにほかにも、「よくよく信心を強盛にして霊山浄土にまいりなさい」(同1226ページ、通解)、「ただ一心に信心を持(たも)たれて霊山を期しなさい」(同1227ページ、通解) ── 等々、霊山浄土を約束された御聖訓は多い。 ただし、「亡くなって霊山浄土に行く」といっても、当然のことながら、念仏の西方極楽浄土のような別世界に行くのでは、絶対にない。 尊き巨大な宝塔が現れ、全宇宙から仏が来集した法華経の会座(えざ)の様相が示しているように、霊山浄土は宇宙そのものなのであり、宇宙の全体なのである。 したがって、霊山浄土とは、宇宙のどこかに偏って存在しているというものではないのだ。 そんな偏頗(へんぱ)なものではなくして、宇宙全体の大きさ、深さと同等に、わが一念、わが生命は、妙なるリズムを刻み、歩んでいくのだ。 ゆえに、先にも述べたように、いずこであれ、信心・修行をしているその場が、一歩も行かずして霊山浄土なのである。 そして、この正しき信心を貫き、偉大なる正念(しょうねん)を確立した人が亡くなると、その生命は、宇宙全体を余すところなく我が生命とできるような、広大無辺なる境地にいたって、歓喜していけるのである。 そのことを、戸田先生は、「大宇宙の仏界に溶け込む」と言われた。 ここに「霊山浄土」の内実があると拝されるのである。 ●仏の大生命がすべて御本尊に 一、ともあれ、霊鷲山の儀式(虚空会の儀式)それ自体が、仏の宇宙大の生命をあらわしている。 大聖人は、地涌の菩薩の“棟梁(とうりょう)”として、御自ら広宣流布の大願に生き抜かれた。 そして、法華経の会座を用いて、御自身の大境涯を、御本尊としてあらわしてくださったのである。 この御本仏の生命の大功徳は、すべて御本尊に納まっている。中央には、厳然と「南無妙法蓮華経日蓮」とお認(したた)めである。 大聖人は、御義口伝で、御本尊こそ霊山の儀式をあらわし出したものであることを明かされ、そのお姿を「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん=霊山の一会は儼然として未だ散らず)」(同757ページ)と示されている。 また、大聖人と同じく、南無妙法蓮華経を唱え、妙法を実践する所には、霊鷲山の儀式が厳(おごそ)かに現前(げんぜん)する。そして、永遠に消えることはない。 ●正義を満天下に 一、一切は勝負、仏法は勝負である。正義なればこそ、断じて勝たねばならない。 民衆をいじめ、正義を踏みにじる人間とは、断固、戦うのだ。本当の正義の強さ、偉大さを、満天下に示すのだ。 「華果成就(けかじょうじゅ)御書」には「師弟が相違すれば(師匠と弟子の心が違えば)何ごとも成し遂げることはできない」(御書900ページ、通解)と厳然と仰せである。 悪を鋭く見抜き、どんどん声をあげるのだ。臆病であってはならない。 勇敢なる真実の弟子が、一人立てばいいのだ。 日興上人の「原殿(はらどの)御返事」には、こう記されている。 「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733ページ、通解) 師弟が心を合わせて唱えゆく、妙法の音声(おんじょう)に勝るものはない。 御聖訓には仰せである。 「白馬がいななくのは、我らが唱える南無妙法蓮華経の声である。この唱題の声を聞かれた梵天、帝釈、日月、四天等が、どうして、色つやを増し、輝きを強くされないはずがあろうか。どうして我らを守護されないはずがあろうかと、強く強く思われるがよい」(御書1065ページ、通解) 朗々たる唱題の声が、諸天を動かし、自分自身を厳然と守りゆくのである。 ● 永遠に輝きわたる創価の霊山会に集った、正義の皆さまが、絶対に幸福にならないわけがない。健康にならないわけがない。 最後は断じて、すべてに勝ち抜いていけると決まっているのである。 わが使命の舞台で、人間革命のドラマを成し遂げ、皆に勇気と希望を広げて、広宣流布を進めていく。これが、地涌の菩薩の「霊山の誓い」であるからだ。 私とともに! 同志とともに! 学会とともに! この誓いを果たし抜く人生を、悠然と勝ち飾っていかれることを念願して、私のスピーチとしたい。 亡くなられた全同志、またご家族や友人の方々の三世永遠の幸福を祈ります。 そして皆さまの一家一族が、ますます栄えていくことを、心から祈っております。 同志の皆さまにも、くれぐれも、よろしくお伝えください。 ありがとう! 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