2016年7月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)13時02分10秒 通報 編集済 頼綱(よりつな)とその一族が幕府を支配していた恐怖政治は七年間続き、 執権である貞時(さだとき)はまったくないがしろにされていました。 その貞時(さだとき)へ、頼綱(よりつな)の長男が 「父は次男ともども専横をほしいままにしています。 やがては、次男を将軍へとたくらんでいます」と讒言したのです。 大聖人滅後十一年目の永仁元年四月、 鎌倉に大地震が起こり、死者は二万人におよんだといいます。 その直後、執権・貞時(さだとき)の命を受けた軍勢が、頼綱(よりつな)邸を襲い、 頼綱(よりつな)と次男の親子をはじめ、一族を滅ぼします。 父を密告した長男は、佐渡へ流罪されましたが、のちに許されています。 権力の座にのぼりつめた末に、わが子の讒言によって惨殺されたという事実は、 因果の厳しさを示していると思います。 その後、貞時(さだとき)は執権の座を退き、一門の後身に執権職を譲りましたが、 幕府の実権は握ったままで独裁政治をしきました。 しかし、徐々に御家人の窮乏は進み、幕府の財政も苦しくなっていきます。 この頃は、高時(たかとき)が執権職に就いていましたが、 高時(たかとき)は政治をかえりみずに田楽や犬追物に熱中し、 執事(内管領)の長崎高資(たかすけ)らが実権を握り、 賄賂(わいろ)が横行し、幕府は腐敗していきました。 京都の朝廷では倒幕の計画を進めていましたが失敗に終わります。 しかし、楠木正成(くすのきまさしげ)などが 幕府に反抗して立ち上がり、地方武士団が登場します。 正成が立てこもった千早城は、幕府の大軍に囲まれても落ちなかったため、 畿内や西国で反幕府の兵を起こす者が増えていきます。 関東では新田義貞(にったよしさだ)が反幕府の兵を挙げ、鎌倉へ進軍。 そして、大聖人滅後五十二年目にあたる元弘三年(一三三三年)五月二十二日、 北条一門が鎌倉の東勝寺で自害――。 百五十年にわたって武家政権の鎌倉幕府が滅亡したのです。 北条一族・幕府滅亡の直接的な原因は、 御家人の離反による内部崩壊であり、自界叛逆の姿だったといいます。 ―― 「御書を学ぶ人のために」より(趣意) ―― おわり Tweet