投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月16日(土)11時41分47秒   通報

皆さんは「勉強」と「学問」の違いについて考えたことがありますか。

「えッ ! 勉強と学問は一緒じゃないの ?」

――じつは〝勉強する事〟と〝学問する事〟とは、意味合いがまったく違うのです。

勉強とは文字通り「勉を強いる」また「強いて勉める」という意味で、
本当はあまりやりたくないことでも、強いて(多少の無理をして)頑張るという義があります。

グリグリの友人に、熾烈な受験勉強の果てに大学に入り、そこでまた猛勉強の日々を送り、
大学を卒業し、何社かを就職したのち、会社を起こして大成功した人がいます。

彼は言います。

「受験向けの知識や大学での勉強は、実社会でほとんど役に立たなかった」と、そして
「大学には学問がない」と嘆いていました。

今の子供たちは痛々しいほど勉強している。
また、させられている子供が目につきます。

夜の十時だというのに、小学生らしき子供がミスタードーナツ店で
ドーナツをほおばりながら教科書を見つめて勉強していた。

グリグリは思わずその子に尋ねた。「どうしてそんなに勉強するの 」と。

いい学校に入り、いい会社に入り、いい生活をしたいからなの――。

もちろん、その子供は得体のしれないオッサンに問いかけられて、怖かったのでしょう。
何も答えず、黙ってじっとグリグリを見ていました。

当然ですが、勉強することが悪い事とは言いません。

しかし、そこには「なぜ」という問いかけが入る余地がないように思うのです。
勉強はどこまでいっても勉強で、それは学問とは本質的に異なります。

学問とは「学び、問う」ということであって、学習するだけでは学問にはならない。

なぜかというと、そこには「問う」という内発的で主体的意思がないからです。

内発的で主体的意思の〝問い〟というものは、
未来を開くために過去を通して現実を問うことにもなっていくし、

やがては自らの生き方への問いへとたどり着き、ついに生命や生死への問いに至ります。

池田先生は言います。

「何のための勉強か、何のための学問か、何のための人生か
――きみたちはこの〝何のため〟を忘れるな(趣意)」と指導しています。

未来部員や教学試験を受ける青年部は、つねにこの「何のため」を問い続けてほしい。

そうでなければ、学生時代に学んだ知識も、教学試験の時に学んだ教学も、
身に付くことはないし、実社会で役にたつことはないと思います。

おわり