投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)13時01分33秒   通報
生命は本来、宇宙大の大きさを持ち、無始無終である――。

つまり、始めもなければ終わりもなく、永遠に実在していくものなのです。

何度も繰り返して言いますが、
今世で積んだ悪因が、今世で悪果として出なくとも、
来世でその報いを受けることだってあるのです。

この三世の生命観を信ずるならば、目先の勝敗に一喜一憂することなく、

ただひたすらに御書を信じ、師匠の指導通りに実践していくことが、
三世にわたって永遠に崩れない幸福をつかむ源泉ではないかと確信します。

最後に、

日蓮大聖人やその弟子を迫害した権力者たちの末路(歴史)を記して終わります。

大聖人が入滅する前年の弘安四年五月、二回目の蒙古襲来が起き、
蒙古軍が九州・対馬を侵略しましたが、七月一日に北九州を襲った台風によって、
蒙古の軍船の多くが海に沈んだために救われました。(弘安の役)

二度にわたる蒙古襲来は、かろうじて撃退することはできましたが、
三度目の蒙古襲来が予想されたために防備を固めなければならず、
強力な統制力と莫大な戦費が必要でした。

幕府自体が財政的に困窮したうえ、戦費の負担で御家人も窮乏し、
蒙古撃退の戦功に対する恩賞が少なく、不公平だったこともあって、
幕府への不満が高まっていきます。

困難な事態を乗り越えるために、執権・時宗(ときむね)はいっそう専制体制を強め、
少数の一族と側近による「寄合(よりあい)」で、重要な問題を処理していました。

寄合の参加者のなかでも北条嫡流の家臣団が大きな力を持つようになり、
その中心人物が大聖人を死罪・流罪にし、熱原三烈士の首を斬り、残りを追放した

平左衛門尉「頼綱(よりつな)」です。

執権・時宗(ときむね)が弘安七年に病死すると、十四歳の貞時(さだとき)が執権職を継ぎます。

頼綱(よりつな)は御家人の代表格で、貞時(さだとき)の外祖父だったライバルの安達とその一族を、
貞時(さだとき)へ讒言して滅ぼし、幕府の実権を独占しました。(霜月騒動)