2016年7月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)13時00分58秒 通報 あえてこの御文を説明する必要はないと思います。 大聖人がこれほど明確に、しかも分かりやすく 「人師、論師を先とせず、経文を先(依法不依人)として善悪を判断せよ」と言われているのに、 どうしてこの根本原理が理解できずに、途中の人師、論師に従ってしまうのでしょうか。 しかも大恩ある父母や師匠や先輩などから決意を促す教訓があっても用いないとし、 人々が信ずると否とに関わらず、ただ真実をありのままに説くと宣言しています。 これが大聖人の信仰に対する基本姿勢であり、正法受持の覚悟です。 私たちで言えば、御書や創価三代の指導に反する主張や思想を説く人は、 たとえ親であろうと、先輩であろうと、幹部であろうと、会長であろうと、 ことごとく邪義であり、人々を地獄に堕しめる獄卒の使者です。 それらに従った会員は、それぞれに応じた 〝総罰、別罰、顕罰、冥罰〟に合い、苦しむのは当然の道理です。 提婆達多が大慢心になって地獄に堕ち、付くべき師匠を間違え、 父を殺して地獄の苦しみを味わった阿闍世王のように、 いずれは苦悩のどん底に沈むのです。 「過去、現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民は、始めは 事なきように思うかも知れないが、終りには必ず滅んでいくのである(趣意)」 (御書一一九〇頁)とある通りです。 法に依って人に依らざれ――。諸宗諸派が乱立し、 何が正義で何が邪義かも、わからなくなった現代社会にあって、 これほど明快な基準、原理はないのです。 それを世界に向かって発信し、現代に「人間革命論(運動)」として展開したのが池田先生の思想です。 Tweet