2016年7月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)13時00分24秒 通報 では、それが生命のどこに現れているのかというと、 人間の四苦とされる「生老病死」に現れているのです。 もともと人間の人生には本然的にこの生老病死はつきまとっている 苦しみであり、ここから離れることは不可能です。 言い換えれば、この生老病死が人生の特質であり、人生は生老病死を通じて 〝幸・不幸〟があらわれ、生老病死として私たちが実感するのです。 つまり、生は生なりに、老は老なりに、病は病なりに、死は死なりに、 それぞれ価値と意義をもっているのであって、 生老病死があればこそ人生の幸福もあるのだということです。 生老病死は生命の法則であり、宇宙の法則です。 それを〝幸福の生老病死〟とするか〝不幸の生老病死〟とするかは、 その人の一念の生命によって決定されていくのです。 では、提婆達多や阿闍世王のような過ちを犯さず、歓喜のなかの大歓喜に 包まれた生老病死の人生を生き切るには何が必要なのでしょうか。 今度はそれを考えていきましょう。 大聖人は 「幼少のころから学問に心がけ、十二歳の時から宝前で『日本第一の智者となしたまえ』と願ってきた。 その後、あらゆる諸宗の寺にいって諸宗の法門を研鑽し、京の都や田舎などに行って修行し、 他宗の法門を学習したが明確な答えは見つからなかった。 もともと自分(日蓮)の願いには 『諸宗のいずれの宗に対しても、偏った心や執着は持つまい、 いずれの宗であっても仏説に証拠があって、道理が明確であるものを用いよう。 論師、訳者、人師などによってはならない。 ひたすら仏の経文を第一としよう。 また法門の上では、たとえ国主の責めを受けてもはばかることはない。 まして、それより以下の人々は言うまでもない。 そして、父母、師匠、兄弟などの教訓であっても用いることはない。 人が信じるとか信じないとかに関わらず、ただ経文のままに言い通していこう』 との誓いを立てていた。 それらの誓いを根本として、弘法の邪義や、たとえ伝教大師の末流である慈覚、智証で あってもこの二人から邪義を主張するようになったので、日蓮は強盛に責めているのである(趣意)」 (御書一二九二頁)と述べています。 Tweet