2016年7月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)12時59分44秒 通報 先生が子供たちを「未来からの使者」として大切にされているのだから、 親は師匠のその思いを受けて子供に対して〝尊敬〟をもって 信心を教えなければならなかったはずです。 一番大切な友人を折伏するように、 またそれ以上に、理を尽くし、心を尽くしていくべきです。 親が仏法の道理も学ばないのに、子供に仏法の道理を教えられるわけがありません。 教えられるとすれば、親がつかんだ小さな信心の体験だけです。 その体験も教学という裏付けがあって教えてこそ、立派な信仰体験になるのです。 我見の小さな功徳体験ばかりだと、二乗根性の子供に育つ可能性があります。 少しぐらい勤行を始める時が遅かったとしても、そんなことは 一生の問題から見れば、たいしたことではありません。 大切なのは信心を嫌いにさせないことです。 なぜなら 「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書二三二頁)だからです。 話をもどします。 人間の〝幸・不幸〟自体の因果を考える時、どうしても仏法で説く 三世の生命観や永遠の生命観に立たざるを得ないのです。 心地観経には 「過去の因を知らんと欲せば、その現在の果を見よ。 未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」とあります。 ここでいう過去とは〝過去世〟のことであり、 現在とは〝現世〟であり、未来とは〝未来世〟のことです。 何度も繰り返して言いますが、現在の世における様々な人間の差別があるのは、 過去世の因による結果であり、また現在の生命を因として、 未来世における生命が決定されると説くのが「三世の生命観」です。 この三世の生命観が仏法の大前提であるというのは様々な経文にも明らかです。 Tweet