投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月15日(金)09時19分34秒   通報
食物を断たれた王は牢獄の窓から霊鷲山に向かって釈尊を思い礼拝していたといいます。
また、夫人は王を飢餓から救おうと自分の体に蜜を塗って王の所に通っていました。

しかし、それを知った阿闍世王は激怒し、牢獄の窓を閉じ
王の足を刺して立てなくしたうえ、母も殺そうとしたのです。

しかし、ギバ大臣に諌められて母を殺すことは思いとどまりました。

その後、提婆達多が新仏になる野望がすべて失敗に終わり、
大地が割れて提婆達多が生きながら地獄に堕ちたあと、

阿闍世も五十歳の時の二月十五日に、
全身に大悪瘡(悪いできもの)ができて三月七日に死ぬと予言されます。

阿闍世が病にかかると、父はこれをあわれみ、それを聞いた阿闍世は後悔して、父を救おうと
家臣を牢獄に向かわせましたが、父は苦刑が加えられるものと思い、自ら命を絶ったと伝えられています。

提婆達多にたぶらかされ、父を殺した罪に苦悩していた阿闍世王は、
今さら釈尊のもとへ行くことは出来なかったのでしょう。

そのうえ、全身に悪瘡ができ、もうすぐ死ぬと宣告されたのです。
まさに最悪の地獄の苦しみだったと思います。

体中にできた悪瘡が腐敗し、高熱にうなされ、
父を殺した罪の深さに苛まれて心身ともに病んでいたのだと思う。

そこで阿闍世王は諸大臣の助言に従い、六師外道にその悪瘡を治させようとしましたが、
それも叶わず、最後はギバ大臣の勧めによって、釈尊のもとへ行ったのです。

そこで釈尊は阿闍世王に涅槃経を説き、悪瘡はたちまち癒えたといいます。

その後はますます信心を深め、釈尊滅後も仏教界のために大いに貢献したと伝えられています。