2016年7月14日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 7月14日(木)22時02分27秒 通報 編集済 本来ならば「釈尊の心は法華経第一である」と訴えた像法時代の 法華経の行者(天台・伝教)を中心として、法華経の精神(円頓止観)を流布するために、 仏教界は一致団結して協力し合わなければならないのに、彼らは自分勝手に 邪義を立てて民衆を惑わしている――これは破和合僧を犯しているのと同類だと言っているのです。 私たちに置き換えていえば、 日蓮大聖人の直系の弟子である創価三代(牧口・戸田・池田)の思想や指導を中心にして、 世界平和の建設を現実のものとしなければいけないのに、その思想を中心とせず 「時流には逆らえない」 「その指導は今の時代に合わない」 「指導された当時と今とは状況が違う」 などと我見や邪義を唱え、先生の思想をないがしろにするのは 破和合僧を犯していることと同じではないかと考えます。 次に 「今の念仏者らは釈尊の入滅の日にあたる二月十五日を勝手に阿弥陀仏の日と定め、 仏の誕生された八日を薬師仏の日といっている。 また、一切の真言の法師は大日如来を崇めて釈尊を無明に迷う仏であるとし、 我らの履(はきもの)取りにも及ばないと言い、あげくは儀式のときには檀上に曼荼羅を敷き、 その曼荼羅の上で釈迦仏の頭を踏んでいる。 また禅宗の法師らは教化別伝と主張し、一切経は使い古しの紙にも劣り、 我らは釈尊より偉いと言っている。 これらはバラモンの末流であり、出仏身血の一分である(通解)」(同頁)とあります。 つまり、出仏身血とは〝大慢心〟のことではないかと思います。 私たちで言えば、御書や先生の指導を根本にして意見する人間に対して 「先生の偉大さは当然として、今は執行部の言うことが正義なのだ」 「先生の指導を利用するな」 「組織は絶対にまちがったことはしない」 「会長は偉い人で幹部は部員より偉いのだ」 などと勘違いして、先生の指導を忠実に実践している同志に威圧感を与える幹部は 出仏身血の一分にあたるのではないかと思います。 つまり、先生を中心にして〝一切皆平等〟である同志に対して、 権威を振りかざし、上から目線で物を言う人はこれにあたるということです。 Tweet