2016年7月21日 投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月21日(木)22時17分38秒 通報 全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。 2006.8.6 【名誉会長 盂蘭盆の意義を語る 長野研修道場】 世界宗教の広々とした大道 ─ 仏法の本義に違(たが)わないかぎり その地その時代の風習に従う ●随方毘尼(ずいほうびに)の法理 一、日蓮大聖人は、祖先や故人を供養し、追善しようとする門下の真心については、大いに認められ、奨励もなされている。 しかし、大聖人は、「孟蘭盆会」や「彼岸会」などを、教義として積極的に取り入れようとは、なされなかった。 すなわち、門下が信心を表す機会とする限りにおいて、一般の慣習を認められているが、それは、あくまでも「随方毘尼(ずいほうびに)」の上から用いられていると拝される。 「随方毘尼」とは、仏法の本義に違わない限り、それぞれの地域の習俗や、時代の風習に従うべきであるという法理である。 御聖訓には仰せである。 「成仏の理に大きく違わないのであれば、とりあえず、一般社会の道理を用いるべきである」(御書1015ページ、通解) 「この戒(かい=随方毘尼)の心は、甚だしい過ちでないことなら、少々仏教と違うことがあっても、その国の風俗に背くべきではないということである」(御書1202ページ、通解) 世界宗教として、「末法万年尽未来際」へ、永遠に行き詰まりのない広々とした大道を、大聖人は開き残してくださったのである。 ●慣習を悪用した貪欲(どんよく)な邪教 一、先ほども触れたが、釈尊滅後に成立したとされる「孟蘭盆経」では、供養によって、目連が母を救ったと書かれている。 この内容を、堕落した既成仏教は都合よく悪用し、信徒からの供養の収奪(しゅうだつ)を重ねてきた。 これに対し、仏法に暗い坊主たちを痛烈に弾呵(だんか)し、真の追善供養の本義を、厳然と示してくださったのが、日蓮大聖人であられる。 大聖人は仰せになられた。 ── 目連ほどの聖者であっても、母を救えなかったのは、低次元の教えに執着していたからである。 その目連が法華経に帰依し、妙法を唱え、自ら成仏したときに、初めて父母もまた成仏することができた ── (同1429ページ、趣意)。 「成仏」を決定づけるのは、正しき法を正しく実践するかどうかである。 低い教えでは、生きている人間でさえ、成仏できない。いわんや、故人を成仏させることなど、とうてい、できようはずがない。 大聖人は、こう断言なされている。 「自身が仏に成らなくては、父母さえ救うことは難しい。ましてや、他人を救うことなどできない」(同ページ、通解) ●世の中で一番悪いのは坊主 一、大聖人は、仏法の勝劣を知らない愚かな坊主たちが大勢集まって祈祷(きとう)したとしても、追善供養などにならないことを、徹底的に糾弾(きゅうだん)されている。 「今の僧たちは、二百五十戒とは名ばかりで、持戒ということに、ことよせて、人をたぶらかし、一分(いちぶん)の神通力もない。大石が天に昇ろうとしてもできないようなものである。 (それらの僧の)智慧が劣っていることは、牛や羊のようであり、たとえ千万人を集めたとしても、父母の一つの苦しみをも救うことができるであろうか。いな、できはしない」(同1428ページ、通解) ここに、大聖人の偉大なる「宗教革命」の師子吼を拝することができる。 真実の宗教に背く、ずる賢い坊主が拝んでも、成仏するということは、絶対にありえない。断じて、だまされてはいけないと、厳しく戒めておられたのである。 この点、戸田先生は、痛快に言い放たれていた。 「世間では、盆とは、先祖を苦しめて、坊主が金を儲ける行事だ」 「今の坊主をよく見よ、お盆回りに、眼の色を変えてる坊主どもを見よ」 「仏法を売る者を、禿人(とくにん)という。世の中で一番悪い害虫は坊主ではないか」 さらに、戸田先生は、こうも論じられた。 「日本人の多くは仏教の各宗派に属していて、先祖伝来の墓を守り、盆や彼岸にはそこへ参詣して、僧侶に供物でもあげたり、墓の掃除をすることなどが宗教であると考えている者が多い。 現代の腐敗した寺院の僧侶たちは喜ぶにちがいないが、これでは、釈尊の真意はまったく没却(ぼっきゃく)されてしまったのである。 もしこれが宗教であるならば、十二因縁、六波羅蜜(ろくはらみつ)、三種の教相(きょうそう)などという哲学や修行は、まったく必要がなかったのである」 人々を惑わし、誑(たぶら)かしてきた「葬式仏教」への胸のすくような破折であった。 ●先祖代々、子孫末代まで幸福に 一、御義口伝には、「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦(どくじゅ)し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄(むけんじごく)にまで至って、即身成仏させる」(同712ページ、通解)と仰せである。 ただ「題目」こそが、無間地獄に堕ちた衆生にまでも回(めぐ)らし向けることができる、真の追善回向の法なのである。 妙法は、十界・三千世間を貫き、さらに生死を貫く、真の普遍にして永遠不滅なる大法則だからである。 ゆえに、私たちが題目を唱え、題目を広めることに勝る追善供養は、絶対にない。 広宣流布に戦う人生こそが、亡き家族への究極の回向となっていることを、晴れ晴れと大確信していくことだ。 「孟蘭盆御書」の有名な一節には、こうも仰せである。 「悪の中の大悪は、その報いの苦しみを、わが身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのである。 善の中の大善もまた同じである。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になられたのである。 また上(かみ)七代、下(しも)七代、上(かみ)無量生、下(しも)無量生の父母たちまでも、思いがけなく成仏されたのである。 さらには、子息、夫妻、従者、檀那、無量の衆生が三悪道を離れただけでなく、皆、ことごとく(菩薩の修行の中で最初の不退の位である)初住(しょじゅう)の位に昇り、また(極果〔ごくか)〕である)妙覚の仏となったのである」(同1430ページ、通解) 広宣流布という「善の中の大善」に生き抜く功徳が、どれほど無量無辺であるか。 一人の成仏が、万人の成仏を開く。 一人の勝利が、万人の勝利を開く。 自分自身が生き生きと「行学の二道」に励んでいく生命の波動は、時間・空間を超え、限りなく広がっていくのである。 法華経に照らし、御書に照らして、学会員の皆さま方こそ、最も深く追善供養を行じ、一家眷属に、無量の福徳と威光勢力を送っていることは、絶対に間違いない。 ●朝晩に追善 毎日が「お盆」 一、また日蓮大聖人の仏法においては、朝晩の勤行が常に追善回向の機会であり、毎日の勤行が盆であり彼岸であるという「常盆(じょうぼん)」「常彼岸(じょうひがん)」が本義となる。 その意義からいえば、「彼岸会」や「孟蘭盆会」など、特別の追善の機会は、本質的には必要ではない。 しかしながら、それぞれの社会や時代の慣習に鑑(かんが)みながらへ特別の機会を定めることが、追善回向の心を起こさせ、信心に目覚めさせる契機ともなる。 ゆえに、それらを用いるか否かは「随方毘尼」に即して決めていけばよい。 ■ 一、月遅れのお盆は、8月15日の「終戦記念日」とも重なる。 毎年、私は、すべての戦没者の追善回向を、真剣に行わせていただいている。 私の長兄も、ビルマで戦死した。 広島、長崎の原爆の犠牲者の方々、沖縄の犠牲者の方々、さらにアジア、そして、世界の戦争の全犠牲者の方々に、私は一生懸命に題目を送り続けている。 ●「報恩」こそ「人間の道」 一、仏法は、恩が根本である。恩を忘れた人間が、真に人間らしく生きることはできない。 また、恩や信義を忘れ果てた社会は、絶対に幸福な社会にならない。 仏法者の眼(まなこ)から見れば、恩というものを知らないがゆえに、どれほど多くの戦争が起こっていることか。 恩知らずの振る舞いが、結果的に悲惨な争いを引き起こす。 恩を知る。そして恩を報ずる ── この知恩・報恩の道こそ、幸福の道である。平和の道である。 ゆえに、恩を忘れ、人間社会を乱す「不知恩の輩」とは、人間として、仏法者として、決然と戦わなければならないのである。 ■ 大聖人は、「食法餓鬼」について鋭く指摘されている。 「食法餓鬼という餓鬼は、出家の身となって仏法を弘める者のうちで、自分が法を説けば人は尊敬するなどと思い、名聞名利の心をもって、人よりも勝れようと思って、今生をわたり、衆生を助けず、父母を救おうという心もない者を、食法餓鬼といって、法を食いものにする餓鬼というのである」(同1111ページ、通解) まさに、邪宗門の坊主の卑劣な姿そのものである。 戸田先生は、「餓鬼道に堕ちてまで、金をためる必要はない」とも言われていた。 大聖人は、退転・反逆者の本性を、「よく(欲)ふかく」(同1539ページ)と喝破された。 学会の大恩を受けながら、自分や一族のみの名聞名利しか考えず、悪辣(あくらつ)に私腹を肥やし、恩返しをしようともしない。 そして、同志を裏切り、学会に弓を引く ── そういう人間は、厳粛な仏法の鏡に照らせば、ことごとく、欲深き食法餓鬼であり、法盗人(ほうぬすびと)なのである。 狡猾(こうかつ)に立ち回って、かりに世間の法や国法の追及を免れたとしても、厳しき生命の因果は、絶対に逃れることはできない。 仏法の世界は、あまりにも厳正であり、峻厳である。 一、戸田先生は、訴えられた。 「もっともけしからんものがある。それは、学会を喰い物にする者である」 「信心無き輩には断固鉄槌が下るであろう」 「学会のおかげで偉くしてもらいながら、その恩を忘れ、学会員をばかにし、私利私欲のために学会を利用する。 こうした悪い人間は、絶対に広宣流布の本陣の中に入れてはならない。 悪い人間は、断固、叩き出すことだ」 永遠に忘れてはならない、恩師の遺言である。 万が一にも、そうした悪党をのさばらせてしまえば、清浄無比なる学会の和合僧が毒され、撹乱(かくらん)されてしまう。 ゆえに、鋭く見破り、責め抜いていかねばならない。 ●釈尊の葬儀は在家者が執行 一、これまで見てきたように、孟蘭盆が成立していった背景には、仏教が次第に本来の精神を失い、「形骸化」「僧の特権化」の方向へ傾いていった歴史があるといえる。 贅沢な権威の伽藍(がらん)を構えたり、“坊主が祈らなければ、成仏できない”などとするのは、釈尊の精神にも違背し、仏法の本義に反する邪義である。 そもそも、釈尊の時代には、葬儀は在俗信者によって行われ、僧は介入しないのが原則であった。 釈尊自身も、自らの葬儀について、弟子たちが関わることを禁じた。 実際に、釈尊の葬儀は在家信者によって執り行われた。 また、日蓮大聖人が信徒の葬儀を行われた例は、御書に一つも記されていない。 信徒の死後、戒名を与えたという例も、まったくない。 私たちは、この釈尊、大聖人の御精神に直結して、葬儀や追善回向についても、万人が納得できるかたちで、画期的な意識改革を、大きく進めているのである。 ■ 一、ともあれ、これからは、今まで以上に、「権力のための宗教利用」の蠢動(しゅんどう)を厳格に見破る、「民衆の力」「民衆の智慧」が求められる時代となっていく。 それが世界の潮流である。 私たちは、この宗教改革と平和創造の最先端を、広々とした心で、聡明に、また快活に進んでまいりたい。 まだまだ暑い日が続く。どうか体調にくれぐれも気をつけながら、有意義な「友好の夏」「対話の夏」「一歩成長の夏」にしていっていただきたい(大拍手) Tweet