投稿者:無冠 投稿日:2016年 7月22日(金)07時39分13秒   通報

全集未収録のスピーチ144編の各抜粋(聖教新聞 2006.5~2010.4)を掲示します。

2006-8-11 【名誉会長 徒然草と恩師の指導を語る】

●「見ぬ世の人を友とする」
 一、徒然草の成立時期は、いつであったか。
 諸説あるが、1330年(元徳2年)ごろ、兼好が五十歳前後の時期とも言われている。
 ちなみに、その3年後の1333年は、鎌倉幕府滅亡の年。第三祖・日目上人の御入滅の年でもあった。
 兼好は長命で、1352年(観応3年)以降に死去したと言われる。
 じつは、兼好の生きた当時、この徒然草の存在は、ほとんど知られていなかった。
 1448年、室町時代の歌人・正徹(しょうてつ)とその弟子が、いくつか世に存在した徒然草の写本を読み、その真価を見いだして、世に知らしめたのである。
 兼好の死後、100年を経てはじめて、「徒然草」は正当な評価を得たといってよい。
 そもそも徒然草では、読書について、「見ぬ世の人を友とする」営みと言っている。兼好も、目先の毀誉褒貶(きよほうへん)を超えて、未来の友を見つめつつ、筆を振るっていたのかもしれない。
 戸田先生は、よく語っておられた。
 「百年先、二百年先の人びとから仰がれゆく人生を生き抜け!」と。
 私は、創価の人間主義の連帯を、世界190力国・地域に広めた。牧口先生、戸田先生を全世界に宣揚した。尊き同志の皆さまとともに。
 これこそ、恩師の仰せ通りの、“百年、二百年先の人々から仰がれゆく”歴史の劇であると確信してやまない(大拍手)。

 一、徒然草は室町時代以降、愛読された。特に江戸時代の初頭に深く浸透し、80年余りの間に、10数種類もの注釈書が書かれたという。
 作者・兼好への関心も高まり、次々と伝記物語が誕生した。
 有名な近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)も、兼好にちなんだ『つれづれ草』『兼好法師物見車(ものみぐるま)』という浄瑠璃を創作している。

●日寛上人も引用
 一、群馬出身の日寛上人も、文段(もんだん)のなかで、徒然草を引用されている。
 「妙法尼御前御返事」の文段で、「老いたるも若きも定め無き習いなり」(老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である)との御聖訓に関して、次のように記されている。
 「徒然草の四十九段に云く『速やかにすべき事をゆるくし、ゆるくすべき事をいそぐなり』と」
 すなわち、早急にすべきことを後回しにし、後にすべきことを先にしている。そのうちに、一生は過ぎ去ってしまい後悔する ── というくだりである。
 優先すべきことは何なのか。それを知れ。まず、それをなせ。さもないと、悔いを残すぞ。そう戒めているのである。
 兼好は、次のようにも綴っている。
 「一生のうちで、とくに望むことの中でどれがたいせつかと、よく思い比べて、いちばんたいせつなことを思い決めて、それ以外は断念して一つの事に励むべきである」
 「一つの事をかならずし遂げようと思うなら、他の事がだめになるのを残念がってはならない。人の嘲(あざけ)りを気にしてもならない。万事を犠牲にしないかぎり、一つの大事が成るはずはない」(第188段)
 人生の一大事とは、何か。
 それは、永遠に崩れない、絶対的幸福をつかむことだ。嵐にも揺るがない、不動の自分を築くことだ。その根本の力は、妙法である。
 妙法を唱え、広めて、自分も、人も、幸福になる。全人類の宿命を転換する。それを広宣流布という。
 戸田先生は言われた。
 「人間は、権力や金のために汲々(きゅうきゅう)とするか、信念のために死ぬか、どちらかである。
 大理想に生きて、そのもとにわれ死なん、というすがすがしい気持ちで諸君は行け」
 何のために生きるのか。その一点を忘れてはならない。

●所々をぼかしてもっともらしく
 一、中世の動乱のなかを生きた兼好。社会の現実をえぐる目は鋭い。
 第73段「世に語り伝ふる事」には、現代にも通じる、重要な戒(いまし)めが残されている。
 はじめに、「ほんとうの話というものがおもしろくないからか、世間で語り伝える話は、ほとんどがまったくのうそである」 ── 兼好は、そう指摘する。
 そして、年月がたち、その嘘が文字として書き記されてしまうと、「それが事実として定着してしまう」というのである。
 これが嘘、デマの本質である。そして、こう綴られる。
 「いかにももっともらしく、所々をぼかして、よくは知らないふりをして、そのくせ、話のつじつまを合わせて語るうそは、ほんとうらしいだけに恐ろしいことである」
 「だれもがおもしろがるうそは、ひとりだけ『そうでもなかったのに』と言っても仕方ないので、聞いているうちに、黙認したばかりか証人にまでされて、いよいようそが事実のように定着してしまいがちである」

●民衆が主人! 民衆に仕えよ
 一、卑劣な嘘を放置しておくことは、人々の心に“毒”を流してしまうことである。
 傍観(ぼうかん)は悪である。迅速かつ徹底して追撃し、根を断ち切ることだ。
 そうでなければ、苦しむのは庶民であり、民衆である。
 戸田先生は明快に仰せになられた。
 「日蓮大聖人の仏法は、邪悪な権力と戦う、庶民のための仏法である。
 ゆえに学会は、いかなる時代になろうとも、どこまでも庶民の味方になり、庶民を立派に育て、守っていくのだ。そうすれば学会は永遠に栄えていく」
 さらに、こう厳しく言い放たれた。
 「今は民主主義である。民衆が主人なのだ。いかなる権威の人間も、民衆に仕えるためにいる。それを逆さまにするな! 」
 民衆が主人。民衆が主役。その時代をつくるために、学会は立ち上がった。
 戸田先生は、増上慢になった人間たちには、容赦しなかった。
 「この崇高なる仏法の世界を見下ろすとは、何事か!
 どんなに社会的に有名になっても、折伏し抜く闘士、仏法を行じ抜く英雄の心を失えば、一つも偉くない。
 君らは畜生根性に成り下がったのか!」
 有名で、地位や学歴があり、世間でもてはやされる人間が偉いのか。
 とんでもない。それは仏法の位(くらい)とは、まったく関係ない。
 また、戸田先生は、「自分は陰にいて、人を立てることのできる人が、偉いのだ」とも、よく語っておられた。
 そして、陰で広布を支える方々への感謝と励ましを忘れなかった。
 「常に自分の目にふれる範囲だけに気を配っていればよいという考えだけであっては絶対にならない。
 目に見えない陰の分野で活躍している人達にこそ、こまかく心を配り、励ますことを忘れてはならない」
 「現実に、地道な苦労をしている陰の人をこそ、最大に尊敬し、守っていかねばならない」
 陰の人に光を ── 先生は何度も、この急所を教えてくださった。

●日々、師と共に!
 一、師匠のため、同志のため、広宣流布のためか。それとも、自分だけのため、私利私欲のためなのか。
 それを徹して峻別(しゅんべつ)しなければならない。
 戸田先生は叫ばれた。
 「広宣流布の行動をしているように見せながら、すべて自分自身の利害のために動いている人間は、私の敵である」
 私は、この年代になって、毎日、戸田先生のことを忘れないで生きていられる。
 本当に幸せだ。
 毎日、先生と一緒である。
 毎日、心の中で、先生と対話しながら、未来への勝利の道を開いている。
 これが本当の師弟不二である。不思議なる一体の闘争なのである。
 この崇高な師弟の精神を根幹とする限り、学会は強い。壊れない。
 師弟を忘れたら、破和合僧(はわごうそう)が始まる。そこには、もはや仏法はない。
 師弟の心を分断しようとする悪とは、猛然と戦え! 打ち砕け! それが、学会が永遠に発展しゆく根本の道である。
(2006・8・11)

●政治を監視せよ
 「徒然草」の言葉を、さらにいくつか紹介したい。
 一、「昔の聖天子の御代(みよ)の理想的な政治をも忘れ、民が嘆き、国が衰えてゆくのも意に介さず、万事に華美の限りを尽してそれを得意がり、大きな顔をしている人は、なんとも実に無分別なものだと思われる」(第2段)
 いつの世も変わらぬ怒り、嘆きである。
 権力を持つ人間、政治家を、民衆が、なかんずく青年が、厳しく監視し、戒(いまし)めていかなければならない。
 その必要が、ますます高まっている。

●抜苦与楽(ばっくよらく)を実践
 一、戸田先生は指導者の姿勢について語られた。
 「大聖人の仰せに『一切衆生の同一苦は悉(ことごと)く是(これ)日蓮一人の苦と申すべし』とある。
 なんという慈悲の広大さか。政治の要諦も、この大聖人の一言に帰するのである」
 政治の世界をはじめ、世の指導者が、「同苦」の精神を忘れる ── これほど、民衆にとって不幸なことはない。
 戸田先生は、こうも述べておられる。
 「政治も、経済も、科学も、教育も、すべて人間の手に取り戻して、人類の幸福の糧(かて)としていくことだ。そこに、これからの創価学会が果たしていかねばならぬ使命がある。仏法の社会的行動がある」
 私たちは、「人間革命」の実践を核として、このような世界を目指している。
 私たちの目的は、一人一人が、個人的な成功や社会的実証を得ることだけに、とどまらない。
 それだけで終わるような、ちっぽけな、狭いものではない。
 もっと深い次元から、もっと恒久的な、平等で幸福な世界をつくるのだ! ── これが戸田先生の信念であった。それはそのまま私の理想である。
 「抜苦与楽」の哲学を、現実の社会で実践していく。ここに、学会の責任があることを、忘れてはならない。

●愚人にほめられたるは第一の恥
 一、「徒然草」に、こうある。
 「きわめて愚かな人は、ふとしたときに賢い人を見て、これを憎む。『大きな利益を得ようとして、わずかな利益を受けないで、うわべを偽って名声を得ようとするのだ』と悪口を言う。賢人(けんじん)の行為が自分の心と違うのでこのような非難をするのである」(第85段)
 大聖人は、「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書237ページ)と仰せになられた。
 牧口先生は、「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」と断言された。
 愚人は、「本物」を目にしても、正当に評価することができない。
 ゆえに、愚人のまき散らす、つまらぬ文句に左右されることほど、愚かなことはない。
 自ら信じた道を、正義の道を、堂々と進めばいいのである。

●水魚の思(おもい)で!
 一、戸田先生は、「創価学会のこれまでの発展というものは、なんの団結によるものかといえば、信心の団結以外には何ものもない」と語っておられた。
 勝利の鍵は、どこまでも「水魚の思(すいぎょのおもい)」であり、「異体同心」である(御書1337ページ)。それがなければ、思わぬところで失敗してしまう。
 まさに「水魚の思」で、牧口先生、戸田先生が築いた学会である。私もまた、命を削って築いてきた。この師弟のリズムに、心して、呼吸を合わせていくことだ。
 学会の団結には、上も下もない。単なる上下関係になったら、それは誤った官僚主義であり、大勢の犠牲者を出してしまう。絶対に戒めなければならない。
 心を一つにして、同じ目標、同じ信念で、困難を切り抜ける。そこに、いっそう堅固な団結が生まれる。

●自身を知る人が道理を知る人
 一、「賢(かしこ)げな人も、他人のことばかり判断を加えて、自分のことは知らないものだ。
 自分自身を知らずに他人のことを知るなどという道理はない。だから、自分を知る者を、物の道理を知る人というべきだ」(第134段)
 また、次のような一節もあった。
 「すべての欠点は、ものなれたさまをして巧者(こうしゃ)ぶり、得意そうなさまをして、人を軽んじるところにある」(第233段)
 「万事、自分の外に向かって求めてはならない。ただ、身近なところを正しくすべきである」(第171段)
 自分の人生は、自分で歩むしかない。自らを見つめ、“馴れ”を排し、慢心を排して、真剣に、誠実に、自らの使命の道を、まっしぐらに完走する。その人が、真の勝利者である。

●学会の「中心」は会員であり師弟
 一、「悪と戦う心」について、戸田先生は厳しくおっしゃった。
 「破折精神を忘れた者は生ける屍(しかばね)だ。破折精神を忘れた者が幹部になれば、会員が可哀想だ」
 悪を悪と言い切る。敢然と声をあげる。その勇気なきリーダーは「生ける屍」だ。
 その本質は見栄であり無責任だ。苦しむ人を見ても“知らん顔”をする。これほど“ずるい”ことはない。
 悪と戦い、ずるい心と戦う。これが人生勝利の根本である。
 ある時には、幹部に対して、「広宣流布の途上にあって、絶対に、五老僧のごとき存在にだけはなるな!」とも危惧(きぐ)されていた。
 五老僧とは、師の教えを軽んじ、自分の身の上だけを考える、増上慢の存在である。
 どんなところにも「中心」がある。リーダーは、「中心」を重んじなければならない。学会の中心は、会員である。師弟である。
 増上慢は、この中心を認めようとせず、逆に、破壊する。そうした存在とは、断固、戦わねばならない。
 広布のリーダーは、一面から言えば、自分自身との厳しき戦いが不可欠である。そして、その戦いに勝利すれば、境涯も大きく開ける。宿命転換の実証も大きい。

■ 心ある世界の識者は、真剣に学会の未来に注目し、誠実に研究されている。国境を超えて、多くの人が、真実を求めている。
 それらの声に、いっそう力強く、応えていきたい。
 その決意と、青年への期待を重ねて申し上げて、私の話を終わります。
 まだまだ残暑は続く。賢明に、一日一日を勝利していってください! (大拍手)
(2006・8・12)