投稿者:ジョーカー 投稿日:2015年 1月11日(日)14時48分1秒  

創価学会では、弟子に一番や二番という序列は存在しません。また、会長が上、会員が下という関係でもありません。もしも会長が上、会員が下となったら創価学会は邪教になります。

また、役職と信心もまったく別の次元の話です。創価学会も組織ですから、役職者には組織を動かす権限があります。当然、会長が一番の権限を有します。それは役割の話であり、信心とは関係ありません。

そして、物理的な距離と、心の距離もまったく違う話になります。現場の会員よりも本部職員のほうが先生とは物理的な距離は近いでしょう。しかし、近ければ近いほど、みえなくなることもあるのです。仏法は心の世界の話ですから、物理的な距離など二の次、三の次です。

天台宗の座主の慈覚・智証が、間違った解釈をしたため、法華経が第二、第三の教えと下った歴史があります。天台宗の信徒も「トップがそのように判断したのだから間違いない」と信じこんでしまった。そして、日本国は謗法の国となってしまった。日蓮大聖人は、仏法を滅ぼした一番の戦犯として、慈覚・智証を挙げて、弾劾しています。

組織の機構上、会長を中心に運営していくのは当然ですが、信心に関しては会長だろうとなんだろう関係ありません。ここを混同すると、とんでもないことになります。会長よりも先生との心の距離が近い無名の庶民の方々はゴマンといます。信心は役職でも、物理的な距離でもありません。これは基本中の基本です。

日興上人が日蓮大聖人と常に一緒におられ、常随給仕されたこと(物理的な距離の近さ)と同じように、会長が一番先生に近い存在であるから、その人に随っていくのが当然という論理だろうとは思いますが、無理があります。そもそも日興上人は、六老僧の中では、三番目に該当します。弟子に序列をつけるのであれば、日昭が一番弟子となります。
流罪の地にも一緒に行動された日興上人が、大聖人のことを一番に理解され、精神を体現したわけです。その信心があるからこそ、大聖人は日興上人に付嘱したわけです。
ここをはき違えて、距離が近ければ間違いを犯さないとなると、それはもはや魔の思うツボです。

日興上人自体、「自分が間違いを犯し、戒めても聞かないようなら捨てなさい」と言われているように、誰に魔が入るかはわからないのです。況や、役職とは組織を動かす権限がある分、権力の魔性に取りつかれやすいのです。役職が高ければ高いほど、危険なわけです。

信徒よりも、大聖人に近かった五老僧が師に反逆した事実。逆に熱原の農民信徒が、迫害にも屈することなく、殉教した姿。どちらが大聖人と心の距離が近いかは明白でありましょう。

当時も、五老僧は大聖人の直弟子であり間違いを犯すわけがないと、つき随っていってしまった人は厳然といるのです。組織の中心は会長ですが、だからといって、会長の言動がすべて正しく間違いないということにはならないのです。
ここを混同すると、五老僧の末裔になってしまうので気をつけましょう。